万物は流転するようなので
ギリシアの自然哲学者ヘラクレイトスは「万物流転 (panta rhei)」を提唱した。
これは世の真理の1つだろう。
生物学を学んでいると、それを強く感じる。
時間は移ろう。そんな中で、全く同一の状態で時間軸方向に存在することは不可能に近い。これは非常にミクロな視点でみると分かりやすいが、十分にマクロな視点でみてもおそらく気付くだろう。
ミクロな視点、原子レベルは非常にダイナミックであり細胞レベルも同様だが細胞レベルの方が話やすい。一つの細胞は一つの命だ。細胞自体はその中で多くの分子が相互作用、化学反応し合い変化し続ける。遺伝情報が複製され、自己複製によって産まれてから様々な過程を経て死んでいく。アポトーシスやネクローシスなど、死に方も複数種類がるが人間の身体を構成しているおよそ60兆個の細胞1つ1つがそのように生き死にの流れの中に存在している。
況や人間をや、だ。人は発達した脳によって意識の時間スケールが引き延ばされ、心、魂といわれているものは恒久的なもののように認識されている。そうするとまるで、昨日の自分と今日の自分とを同一なものとみなしがちになる。
確かに、変化に時間がかかる部位や産まれてからは細胞自体が変化しない領域が存在する。そういったものが身体という容れ物に封入されていて、それを昨日と今日で同一個体と認識するのはやむを得ない。しかし、前述したように細胞自体が常に変化する生死の流れの中に存在しているわけで、その集合体である人間は小さな個々の流れを集めたより大きな流れを表現している。生物はすべからくそうである。
路傍に咲く花も、一緒に生きている猫も、住んでいる家さえも変化している。
ただ、変化にかかる時間が人間の認識できる範囲から逸脱しているだけで。人間が感覚的に認識できる変化の範囲は非常に狭く、多くの人は変化を認識することなく生命が消えてしまう。
隣にいる大切な人、友人、家族。そういった人たちと過ごす時間は戻らない。生命という流れの中で、一刹那として同じ人はいない。だからこそ、今を大切に生きることを意識的に思い出さなくてはならない。そうすることで、人は優しくなれるのかもしれない。抗う事の出来ない潮流に流されるだけでは、大切なものといつの間にか離れていってしまう。
離さないように手を繋ぎ、流されるというよりも一緒に泳いで笑いながら進んで行くことが、この世界で共に添い遂げることなのかもしれない。
今しかその人は存在していない。今の自分も本当に今だけなのだ。
明日には別のものになっている。
今という時間、人生のある時、晴れ空ばかりではなくもしかしたら雨が降っているかもしれないし、強い嵐が襲っているかもしれない。
人生には色々な天気がある。きっととても苦しい時期もあるだろう。
そんな時に、その天気をその都度楽しんで生きること。雨でも嵐でも吹雪でも。
せっかく生まれたのだから、楽しまないと。
同じことが二度と起こらない、時間が戻らない人生の旅路を豊かで愉快なものにしたいものだ。
これが幸福の秘訣だ。 あくまで私のね。