Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

研究というものについて I

とある研究者は、問題を提起することを芽とし、観察実験をすることを茎とし、そしてそのメカニズムを解くことを花と形容していた。研究というものを、一つの植物として例えたこの言葉は面白い。
研究という行為は様々なものに例えられてきたが、一般的に「高尚だ」、「敷居が高い」とされて大学や病院のような特定の場所でしか行えないものだとされてきた。つまりは一般的に、多くの人々は能動的にその全容を知ろうとしないし、学問を修しているものでさえそれは難しいだろう。
研究分野というものはいまや、数えきれないほど多様化し、細分化している。生物学ひとつとっても細胞生物学、分子生物学微生物学、ウイルス学、神経科学、生物化学、生物物理学etc.のように様々な分野へ分かれたり、混ざりあったりして新しいものが産まれる。逆に途絶えるフィールドもあるし、長く続くフィールドもある。これら全てを把握し、記憶している者など自然という名の神くらいのものだ。

研究というものは、前述したような特殊性の高い領域や確立しているものの他にも存在していると思う。言い換えれば、どんな人もその生を歩んでいく中で「研究」という行為をしているのだ。
どのルートを通ったら目的地に最短で着けるのか、どの組み合わせで買えば最もポイントを多く貯められるのか、どうすれば講義の単位を楽して取得できるか等々例を挙げれば色々ある。これらは、別に研究などではないというものもいることだろう。それも一つの見方であるし、「研究」とするのも一つ見方だというだけの話だ。単純に私の考える特殊性の低い研究活動を例示しただけにすぎない。
さて、しかし私はそのような普遍性の高い研究ではなく、特殊性の高い研究というものに携わっている。それはスマートに言えば「バイオテクノロジー」、大まかに言えば「生物学」、より詳細な内容を踏まえれば「蛋白質科学」、「構造生物学」というものだ。前者二つは分かりやすく聞いたことのある人も多いのではないだろうか。後者二つは比較的近いフィールドにいるものや、相当マニアックな方ならお分かりになるだろう。私はさらに言えば、基礎研究に寄っている研究に携わっていた。つい最近までのことだ。約一年半の間、私は幾つかの研究対象(数種類の蛋白質)を担当して実験や学会発表を行ってきたが、研究室に配属された当初から本来私がしたい研究ではないと認識していた。配属の時点で全く希望していなかった研究室に入ったものであるから、そうなるのは自然であるのだが。それでも、配属当初は自分で自分を納得させて、この研究室で修士、博士を取得していこうかと考えたものだ。
しかし実験をすればするほどに、モチベーションのベクトルとのギャップに耐えきれなくなった。そうして、「研究室を移りたい。」、「本当に興味があることがしたい。」という衝動に掻き立てられて、私はPCの電源をいれた。