Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

だぼ雪の「だぼ」って何でしょう?

からしとしと雨が降っていますね。

冬の雨は肌に突き刺さるように冷たい。

ファンヒータの電源を点けないと死んでしまいますね。死にませんけど。

一人暮らしを始めて7年目くらいですが、実家に帰ると自分以外の気配や音を常に何処かで感じてしまい、少しノイジーです。まぁメリットも多いのですが。

実家では1匹猫を飼っているのですが、私は時々しか帰らないのであまり懐かれていません。顔を知っているご近所さんくらいの距離間ですね。挨拶はしますよ。ぺこりと。

神棚の掃除や餅つきをする予定ですが、なにぶん時間にルーズな人が多い(主に老人ですので、ルーズというより時間間隔のずれでしょう)ので、なかなか何も始まりませんね。

とりあえずアイスを食べました。実家の冷凍庫には何かしらアイスが入っている事が多いです。季節関係なく。メインは祖父母が食べるかき氷やもなかアイスですが、私がいる時はバリエーションが少し増えます。今日はマカデミアナッツのアイスがあったので食べました。色々な食べ物にナッツが入っていますね。カレーにも入っている事がありますが、私も一人の家ではレトルトのカレーに少し入れたりします(後のせナッツです)。栄養というより、食感が好きです。皆さんはナッツを入れたりするのでしょうか?

午後は神棚を掃除しました。置物を拭いたり札を新調したりと寒い中行いました。神事関係は全く乗り気でなく、やらなくてもいいと考えている人間なのです。ただのルーチンになっている神事って神がいるならお怒りになるのでは?やる気ないなら帰ってー的なことを言うんじゃないでしょうか?神でも。というか神なので。

 家族の一人が誕生日だったため、夕食は少し豪華でした。ケーキのレベルが高かったですね(ティラミスとチョコレートの苦味と甘味が調和していました。ティラミスもチョコレートも好きです)。私からのプレゼントは苺の発泡酒です。フルーツが好きな家族らしいので(客観)。


誕生日プレゼントというものを考えるのは嫌いではありませんが、いつも時間がかかってしまいます。何を贈ったら喜んでくれるだろうか。

皆さんは何をあげることが多いでしょう?

大切な人への贈り物は、何を選んでますか?

冬休みなので

お久しぶりです。

実験に追われる日常から少しだけ離れ、世間に合わせて冬休みを取っています。

COVID-19の流行からもう少しで1年が経とうしていますが、無事に今年の最後を迎えられそうです。幸運なことだと思います。

久し振りに実家へ帰り、骨を休めています(どうして身体=骨という言い回しがあるのでしょう?)。どちらかというと、魂を休めていますが(血?)。

ところで皆さんは今年度の年末・年始は何をしてお過ごしになられるのでしょう?

私は年明け間もなく学内での発表があるので、うかうか炬燵で丸まりながら餅と蜜柑を頬張るわけにはいかないようです。

帰省しても出掛ける訳にはいきません。まぁもともと行くようなタイプではないのですが。古い平屋の家に陽光が差さない部屋があり、そこが私の部屋なのですが高校時代の残り物たる紙類、参考書が大量に残り空間を占有しており、ただでさえ暗く綺麗とは言えないのにさらに鬱屈な空気が立ち込めています。

そこで不要な紙類を全て燃やすことにしました。

基本的に燃やすのはA5~A3の紙や封筒でした(ルーズリーフ含)。

物を燃やす経験自体あまり皆さんはしたことがないかもしれません。BBQなどはあると思いますし、料理や煙草で火も使うことがあるでしょうが落葉や紙類を燃やして処理するなどはないでしょう。

ただ燃やすだけなんて簡単で苦労は無いなんて思うかもしれませんが、これが案外難しい。一度点けた火でいかに葉や紙類を残さず灰にするか、案外テクニックのいることだと分かりました。空気の取り入れ方やタイミング、燃やす順番、風の影響、紙の種類などによって左右され簡単に火が消えてしまう可能性があります。

折角ライターで最初の1枚に火を点けたのに、すぐ消えてしまっては大量にある燃やす対象を燃やし終わるまでにすべてのガスやオイルを失くしてしまう事になります。

それはよろしくない。

特に参考書や大量の紙の束を欲張って一度に燃やそうとすると、火は簡単に消えてしまいます。ページ数が多いと燃え移るスピードより燃え広がる前に消えてしまうスピードの方が速くなってしまうのです。少しずつページを広げ、火が移るページを増やしていくように工夫をする必要があります。

「こういったこと」はなんの役にも立たないかもしれませんが、案外楽しかったです。時間を忘れて没頭してしました。

時間の無駄なのかもしれませんが、その間はスマホやPCから離れていて周囲は自然。閉鎖された田舎でよかったと感じる点は、散歩の時に誰にも会わない点とこういった時くらいです。

また落葉を燃やしたいですね。いいストレス解消です。

やらせとか正直

どうでもいいわぁーと思いながら、SNSのニュースを流し読み

結局のところエンターテインメントでしかないしそれがやらせかどうかなんて、情報が流れなければ知り得ない

逆に言えばたとえやらせではないにしても噂が立てば暇な人間たちはすぐ火をつけて炎上させたがる

事実なんてものは当事者でしか分かり得ないが故に、当事者以外は正直言えばどうでもいいだろう

逆にやらせだったとして、それを知らず楽しんでいたなら今更何を言う事があろうかと思うわけだ

 

批判して何か変わるだろうか

過去は変えられないし、その時楽しんだ気持ちをわざわざ怒りなどの負の感情に変えてしまうのはもったいないではないのだろうか

皆さんはどうだろうか?

テレビなどで騒ぎ立てる程のことだろうか

それよりも、本でも読むといいじゃないだろうか

 

ということで、梨木香歩さんの「家守綺譚」をおすすめ(先日読了したばかり)

秋がきーた?

朝、目が覚めると外に出て空気を吸う

冷たい空気が肺を満たしていく

身体の末端まで冷たい秋の空気を送り込む

鮮烈な夏の生命の明滅から少しずつ、空気に混じる生命が枯れゆく感覚がドメスティックになっていく

 

寂しい季節なのかもしれないが、私はこの感覚が嫌いじゃない

そういった空気が身体を満たす時、どうしてか、心が暖かくなる

死んでいった者達の体温なのか

死んでいった夏の残滓なのか

爽やかな風には何が乗っているのか検討もつかないが

何も知らない方が幸せなことは

色々と、あるものだよね

 

 

 

 

今週のお題「秋の空気」

人は恋と革命の為に

生きている、と久しぶりに映画の中で聴いた。

最近は合間の時間を無理矢理創って、映画を観る機会を得ている。
伊坂幸太郎さん原作の

アイネクライネナハトムジーク

蜷川実花監督作品の

人間失格 太宰治と3人の女たち

の2作品を最近観た。
前者は友人がエキストラで出ているということ、また原作は読んでいない為内容が気になるということ、三浦春馬多部未華子ペアの作品は嫌いじゃないということなどの理由から。
後者は小栗旬演じる太宰治がどんなものになるのか気になるという点、二階堂ふみ沢尻エリカ宮沢りえの美しい姿を観たいという好奇心から。
それぞれ観に行った訳だが、
元々あまり映画館で映画を観る事が少ない人間である私なので、若干の緊張と共に2作品を観に行った。

どちらも私は良い映画だと感じた。
というより、観に行った映画で悪いものは一つとして無かったと記憶している(そうやって肯定することが日々の幸せの秘訣)。

まだ学生料金で観られる内に、映画館で観ておきたいものだ

研究したい人(博士課程進学希望者)へ

「日本はやめておけ。」

ということと

「日本の中なら東京大学京都大学か、本気で研究したいならOISTやJAISTが良い。」

もしくは

「◯◯研究所の研究員として配属する制度を使える所が良い。」

ということを伝えるだろう。

 

他の大学については、ある程度力のある研究室を除いてお薦めできない。

研究室を決める際に重要だと考えられるポイントを幾つか挙げていこうと思う。

今後研究室を決めていく誰かの一助になれば幸いだ。

 

・研究の内容

 これは大前提だろう。自分のしたい研究に近い事が出来なければ移る意味も無い。これは研究室のHPを見ただけでは不十分で、きちんと研究室へ出向いて聞かなければいけない。

 

・研究室のスタイル

 どのような頻度、深さで雑誌会やゼミを行っているのか。発表は英語なのかどれくらいのクオリティーなのか。研究室の旅行などについても確認しておくといい。

 

・指導教員との相性

 これは実際に話してみてのフィーリングだ。先生の雰囲気やその考え方と全然合わなかったら意味がない。研究していく上の衝突でエネルギーの消費はできるだけ避けたい事と思想が異なり過ぎていると面倒だ。

 

・研究室のメンバー

 研究室所属のメンバー、特に指導教員を共にするメンバーの雰囲気は重要だ。関わり合う機会が必然的に多くなるし、やはり面倒ごとを避けたいからである。

 

・研究室の予算

 お金がない研究室はよろしくない。研究がしたくても出来ないのは哀しい事だ。潤沢な研究資金がない研究室は、やはりお勧めできない。

 

大体以上だろうか。

この他にも細かい事はあるが、ざっくり挙げるとこんなところだ。

他にも知りたいことがあれば、是非聞いてくれると良い。

答えるかどうかは気分次第だが、平均して80%以上の確率で返答するだろう。

大学院を変えることは大半の大学生にオススメしない

分野が新旧で同じならばそこまで大きい問題ではないが異なると非常に危険だ。

特に機械からバイオであったり、情報から医学だったりとなると学部時代に学んできた物の内容が被らない。そうなると院試(大学院進学の為の入学試験)は基本的に学部時代の試験問題などの焼き直しに過ぎず、バックグラウンドの差がそのまま致命的な差になる。過去問の有無や模試などの存在についてなどの情報量が内部生と外部生では天と地ほどの差がある。

こういった障壁を全て突破し、現役で他分野の研究室に所属する為に大学院を変える事はお勧めできない。大半の大学生にはお薦めしない。しかし、研究を本気で、楽しんで行っていきたいと考えている人にとっては話は別だ。

もし学部時代に所属している研究室の研究内容が自分の研究したいことではない場合、そして他の研究をしたい(この機構について知りたい、この病気を治したい、新しいシステムを構築したい等々)といった好奇心やモチベーションがあるならば是非大学院は他分野になろうとも変えるべきだ。

博士課程まで進むつもりの人は自分のしたい研究というものをある程度芯として持っているべきだと考えているが、その先でアカデミアの世界に残留するのか就職するのかは問題ではない。むしろ、博士課程でしっかり研究して学位を取得する能力があれば就職してもなんの問題もない。就活だってなんの問題もなくこなせるだろう。

しかし、博士課程まで進まないと固く決めている人で他分野他大学の院を受けるのは、労力に見合わない結果が返ってくる可能性が高い。特にかけるコストの部分が大きい為、結果も大きくないと釣り合わないが、院を変えた場合とそうでない場合の差がそこまで大きくならないのが就職組だろう。そこまでくると学歴もたいして影響してこない。

研究したいというモチベーションがある人間と、なんとなく院に進んだ人間ではそのDrivingForceの大きさが非常に大きいしスピード感が違う。前者(研究したい人)は早めに覚悟を決めておいた方が良い。

これは全て一個人の経験談でしかないから、鵜呑みにしないこと。

増税だから◯◯を買った

増税の影響が顕著に出るのは高額な商品を買った時だ。

良いお酒もそうだし、電子機器類にも影響が大きくでる。

私が買ったのは、持ち運べる充電器や0.1gまで計量する事が出来るはかり、それにゲームソフト(Wiiスマブラ)だ。あと高めの本も購入した。

しかし、日用品でこれといって買い足したものはない。結局消耗品であるので増税後も購入せざるをえないし、そこまで金銭的にも影響が大きくないからだ。

しかし良さげな充電器やはかりはお高めだったが長く使用する事が決まっているし、あると非常に便利だ。

今後もどこまで上がるが見ものだが、そんな節目節目で、皆さんは一体何を買うのだろうか。

 

増税前だから、といって婚約指輪を買うのは失礼に値する事だろうか、合理的なことだろうか。

博士課程の人間が少なくなったというけれど...

実際は人数としてはそこまで大きく変化しているとは感じない。

しかし、どうしてそのように言われ始めたのだろうか。

おそらくこれは「博士課程進学者の絶対数」ではなく、「博士課程進学者の相対数」であると推定できる。以前と比べて大学の数が増え、大学生の数が増えた。それにより依然より増加割合が小さい博士課程進学者が目減りしているように見なされるだけだろう。

つまりは密度の問題というわけだ。密度が疎になってしまい、博士課程進学者がレアキャラになっているようにみなされる。さらに言えば大学院進学者は増加していると感じるが、そのレベルが異常に低い事がそうみなされる原因の1つになっていると考えられる。

シンプルに修士課程(博士前期課程)へ進めば就職した時の初任給などに差が企業が増えるし研究職になると修士以上でなければ中々難しい。ただただモラトリアムの延長を楽しみたい人もたくさんいる。これらの比較的簡単な理由から、修士課程進学者の中で研究というものに熱中するという人は少なくなっていると感じる。さらに先の博士課程へ進学する人たちにも影響するし、日本科学界に影響は拡がっていく。

 

私個人としては、修士課程まで進んだ人間は研究をしっかりとするべきだと思う。これは実際しっかり研究できる人間はセルフマネジメント能力に長けているし、研究をしっかりすれば身につくものだ。中途半端に実験して何も考えずに先生が提示した問題に教えてもらった方法だけで臨んで惰性でうっすい修士論文を書くくらいならとっとと学部で出ていってほしい。有限な研究資金をそんな覚悟のない人間にまわす余裕はない。

 

厳しいと感じるかもしれないが、海外では修士課程以上は給料が発生する立派な職業に近いものだ。自分の研究には責任をもって取り組み、結果すべてを受け止める覚悟をもって臨まなければフェアではない。

 

確かに日本の制度は非常に学生に負担をかけているが、学生個々人の研究への態度は独立した問題だ。それは制度を決めているところへ石をなげればいいだけの話だ。研究に対して適当に望むのはそもそも危険だし金の無駄だし、人生の無駄だ。即刻辞めて就職した方が良い。

 

私はそんな覚悟で研究に臨んでいない。

覚悟のない研究は何の真実も見出さないし、何も社会に還せない。

ゴミみたいな研究を何十年も惰性で続けるなら、とっととリタイアして金を有望な若手にまわすべきだ。

 

なんて、攻撃的な事をいってみたりしてね。

大学生の温度差って凄い

 大学進学時点から研究したいと考えていた私からすると、大学生活はいずれ行う研究活動の為の基礎作りであって、勉学というものには必死に取り組まなければならないと考えていた(遊ばないとは言ってない)。

勉強する時は勉強して、遊ぶときは遊び、飲むときは飲んで、それぞれに集中していくことがとても大切だと思っていた。

しかし、前半で述べたような研究への意欲というものに非常に差があると感じたのが入学してすぐのことだった。これはすべての大学に共通していることだと思う。

勿論、東大、京大という偏差値の高い大学に入った人間の中でもそうではある(しかし自身の論理がしっかりしている人が比較的多い)。そんな中で、その温度差の中で、モチベーションを保ち続ける事は難しいことだ。次第に難しくなってきて、勉学がおざなりになり、遊びの比重が増加していく。

勿論、そういった遊びの中で得るものも大きいし、自分の芯となる何かを手にする機会になり得る。馬鹿にはできない。しかし、それは研究機関としての側面でいう大学でやる事なのかという疑問は生じる。大学でなくても出来る事ではないのか?勿論時間的な制約が最も希薄となるのは大学生の間だろう。長いところでは夏休みが2ヶ月以上あったりする。制約がなくなればなくなるほど、自由であればあるほど、人間は悦を求め怠惰に走る傾向がある。芯が固まっていない若人の間は特にだ。

しかし、芯を既に獲得している、もしくは獲得過程にある人間は非常に勁い。

漂える葦と比べれば、断然。

私は、まださ迷っている葦なのかもしれない。

最近本を読めてないけど、なんとか一冊読めたというか読むしかなかった

 最近は研究関係の本、論文しか読めていなくて小説を1ページも読めていない.

しかしセミナー関連で読む必要が出た本を一冊読むことができた.

「キリン解剖記」郡司芽久氏 だ.

この本はキリンが大好きな作者がキリンの身体に隠された秘密の1つを解き明かすまでの一連の物語を綴っている.

非常に面白くかつ読み易く、数時間で読了してしまった.

キリンの解剖が巧い希少人間であり(圧倒的な努力による)、読むと分かるが文章が巧い.勿論、編集関係の力もあるだろうが、恐らく彼女自身の文才が非常に長けていると感じた.

彼女自身のストイックさがよく伝わる本で、研究がしたくなる啓発的な一面も持っている本だ.

 

研究がしたいけれど、何がしたいんだろうと悩む学生は、一度(何度でも)読んでみると良い. 非常に熱くなれるし、ワクワクする話だった.

 

少しばかり専門用語も出てくるが、一気に読める本だ.

是非研究していない方でも、読んでみて欲しい.

理学と工学の研究指導スタイル 2

最大公約数的指導により、工学系博士後期課程進学予定者(Dr.を取得する予定の人)へのケアは研究者としてのトレーニングの質を理学系の博士前期課程進学予定者への指導と比べて著しく下げ、個々人の能力向上は二の次になる.

 

これはアカデミアの世界で生き残ってきたいと考えてる人間へは致命傷で、もし仮に進んだとしてもその先で挫折や絶望などしてアカデミアの世界から去っていく.

 

理学系は自分の力で好きなことを研究する為の基礎作りから修士をスタートするし、その先へはそこで適性を自覚できた、客観的に見て持っている人間が進むという狭き門になっていた.

しかし工学系は、正直に言って博士課程への進学自体は誰でもある程度適性が出るようになっている(本当は持っていないかもしれないのに).そしていつでも就職出来るようにある程度保証を提供している.

 

だから質が良い研究者が育たないが、就職は良くなる.

そうして就職が良いなら…という理由からの進学者は増加し、質が下がり続ける.

このループに入っている状態では、近い将来海外に全分野が追い抜かれてしまうだろう(時既に遅しの分野もあるが).

 

研究したい人材はこれにより海外へ進むことが多い.

この負の循環を断つ為の方法を、私達は考え、そして変えていかなければならない.

その責任と覚悟を持って、アカデミアの世界に進むべきだと、はやくは修士課程に進むべきだと常々感じている.

 

理学と工学の研究指導スタイル 1

理学の世界と工学の世界に進む若者たちは、それぞれその路に進むモチベーションが大きく異なっている.これは勿論個々人にも大きく依存しているのだが、その中でもクラシカルな大きな溝については、互いに認識していないことも少なくない.その相互理解の程度が低い為、口論になることもある.

 

理学系に進む学生の中では

(1) 自分が興味のある対象を研究したくて進んだ人間

(2) 文系科目が苦手で仕方なく進んだ人間

(3) 特に何も興味がないがなんとなく進んだ人間

 

その中でも大学院に進む学生では

(1) 本当に研究がしたくて進む人間(30%程度)

(2) モラトリアムの延長権を獲得したいと進む人間(70%程度)

 

工学系に進む学生の中では

(1) 自分が興味のある対象を研究したくて進んだ人間

(2) 文系科目が苦手で仕方なく進んだ人間

(3) 就職に強いという理由から進んだ人間

(4) 特に何も興味がないがなんとなく進んだ人間 

 

その中でも大学院に進む学生は

(1) 本当に研究がしたくて進む人間(1.5%)

(2) モラトリアムの延長権を獲得したいと進む人間(35%程度)

(3) 修士卒での就職、学校推薦を狙って進む人間(63%程度)

 

このような割合になるだろう.

この中で理学・工学の中で「本当に研究がしたくて進む人間」は希少種であり、その大学・研究室別でその教育スタンスが違うが、特にそのモチベーション格差と最大公約数的に教育しなければならない制約条件の中で両スタンスの間で齟齬が生じる.

 

これは物議を呼ぶ種だ.

 

しかし、理学系博士前期課程進学者への教育は工学系博士後期課程進学予定者への教育へ共有される必要があると考えられる.

端的に現段階である前者のスタンスは

「獅子は子を谷に突き落とすスタイル」であり、自身の力を伸ばし指導教員さえ倒すような覚悟で進まなければアカデミアの世界で生き残っていくことは不可能だと教え込む.

 

そして、その指導の中で向き不向きを自覚してアカデミアの世界に残る者たちは減少していく訳だが、

後者の場合は就職時の経済的メリットを享受したい人間とモラトリアムの延長人間との最大公約数的教育により「そこまで気負わなくていいよスタイル」となってしまう.

 

後者のそれは日本のアカデミア界の衰退原因の主要な1つであると推測される.

りそうのろうご

今週のお題「理想の老後」

正直に言って、老後という概念は必要ないと考えているから老後について考えたことなど殆んど無かった.

リタイアした後に働かない状態の老人、隠居している老人についての生活を老後というのなら、私は老後を過ごすことはないと思う.
死ぬまで、研究の世界に身を置きたいと考えているし、仮に公的研究機関ではリタイアしても違う形態をとりながらでも研究したい.

研究自体に終わりが訪れるのは、自身が死んだ時だ.
それ以降は死者にプラスもマイナスもない.前々から書いているように、死んだことがないから死後の世界は分からないし、此の世になんら影響を及ぼさない時点で少なくとも此の世界では0である.

それなら此の命尽きるまで、好きな事を考えて、思考して生きていきたい.
(真に理解できるのは己の内部だが、その内部を外側から観測している時点で外部でしか観測できないのかもしれない.これは本筋ではないが、思考の内部と外部は意識していおいた方が研究する人間としては良いかもしれない.)

歳を重ねればその分身体機能は低下していく.ある程度向上するが、デスクワークやラボワークが多い人間は自然と体を動かす機会を失ってしまう為、身体機能、体力の低下は著しい可能性がある(研究者は対象以外にも自身の健康も重要なテーマになってくるらしい(博士後期課程先人の言葉)).
そうすると、研究をしていく中でいつか自分の手、ハンドリングする際の繊細な感覚が損なわれてしまう自体からは逃れられない.特に実験屋はその減少に絶望する.
思考はシャープでもライブ感のある実験が出来ないのは非常にクリティカルな問題になる.それこそ思考にダイレクトにきいてくる質的情報が入力されないのだから.

そういった意味では、兎に角繊細なハンドリング、身体機能維持を為すために動的な筋トレなどは欠かせないだろう.

苔 -日々の雑感-

水辺の石や湿度の高い路傍には、苔が生えていることがよくある

苔をみたとき、全て同じような苔に見えるかもしれないが、苔にも結構な種類があり可愛らしい苔もあれば美味しそうな苔もある

 

私は玉苔や銀苔が好きなのだが、中々マニアックな好みだろうと自覚している

以前は苔を育てていた事もある

その苔は粗葉白髪苔(アラハシラガゴケ)という苔でよく苔玉だったり庭園修飾などでみられるタイプの苔で、みていると動きはないし変化も微々たるものだが案外面白い

少なくとも、心に多少緑がもたらされる

 

和の庭園にある池はどことなく混沌を醸し出していたり静を放出しているが、苔はそれらの重要な一部分を担っている

苔がまるで音を全て吸い尽くしてくれるように、その光景からは音が消える

まさに「静寂がある」ようなのだ

 

あまり興味は持てないかもしれないが、少し、

足をとめてそばにある苔に目をむけてみるのも良いものだ