Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

感情の凪

ー 記憶 ー
夜道を歩きながら、人の記憶というものについて考えてみた.
私たちの記憶は、いつの日か突然に始まり、そして突然終わっていく.まるで水底で生じた泡が川を揺蕩い、いつの間にか消えてなくなるように.

私たちの記憶、すなわち私達というものは皆須らく、
泡沫の夢なのだ.
人は、己の人生を夢想する.

全ての人は永遠の中の一瞬に生きている.

物理的な事物、精神的な事物と関わらずに全ては移り変わる.
刹那刹那で私たちは、新たな記憶を獲得しているという点で、過去の自己と異なる存在である.
同じ自己は二度とは存在せず、一息にその生を終えていく.
此の文を綴っている私自身も、生と死の狭間にいる存在であり常に変化し続けている.

仏教において、悟りを開くという事は言わば「此の世の万物はフィクションである」ということを理解し、達観する座標に移動することなのだと私は考えている.

そして自己を、此の世界を形成している根源は「記憶」なのだ.私たちは感情や理性様々な欲望というものに囲まれて生きている.
「悟る」ということは、これらの事象を遥か高い座標から眺めている状態に達することなのだろう.
広く深い海原に、ぽつんと一本の灯台が立っている.そこには一人しかいない.

どこから始まったか知れぬ長い長い階段を上がった先、灯台の先端から海を望めば、波のうねりや流れの方向、魚達の戯れや鳥達の舞踏が見える.これらが言うなれば「俗世」の物事であり灯台はその世界から隔絶された世界.
悟った者はその塔に登った人であり、凪の様な瞳をしてそれらを眺めている.幸や不幸というものからも離れ、喜びや哀しみさえも超克した存在.
それが仏なのだろう.

別に私は仏教というものに詳しいわけではないし、悟ることを勧めているわけでもない.

しかし、多くの人は変化してしまうものに固執し、執着し、希望を抱いているとは考えている.
それが悪い事とは言わないが、なんだか少しだけ幼い気がする(形容詞が適切ではないかもしれないが、今はこの言葉がしっくりきているのでこれで).
その様子は、まるでおもちゃを取られて泣きだす赤子のようである.そこには激しいエネルギーの放出があり感情の爆発があり、彩り鮮やかであるがその分崩壊する可能性も格段に高くなる.
精神にも肉体と同じように許容限界というものが存在する.
その容量を超えた場合はどこかに罅が生じたりそこから何かが漏れだしてしまう.
時には漏れ出した何かが言葉となり、電脳の海を彷徨った先で誰かに届いたりすることもあるだろう.
その「何か」をここでは「魂の痕跡」とでも定義するが、その痕跡に共鳴した場合、人はその出処に惹きつけられる.


閑話休題


「記憶」から大分話が脱線してしまったので、ここで少し軌道修正しよう.
人の人格や魂というものは、その起源を個々人の記憶に持っている.
アイデンティティの源とも言えよう.
記憶を失くすことはすなわちアイデンティティの喪失と同義である.
前述したように記憶は常に更新し続けられている.
つまりは自分自身が常に更新し続けられている.
その肉体も精神さえも.

誰かへの永遠と信じた想いでさえ、変わりゆくものなのだ.

それをそうと理解しながら、私達は永遠の誓いを結ぶべきだと考えることが増えた.
つまりは「期待しない」ということなのかもしれないが、それも少し安直すぎるので却下だ.
変わりゆくものであると理解しながら、それでも己の人生を他人の人生と共鳴させ、干渉し合いながら共に歩んでいくという決断は、とても気高く美しいものであると思うのだ.
「勁さ」というものも、その点に見い出されることがあるのかもしれない.