Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

私的定義 【知性】と【知識】の違い

「知識はただのデータだ」

 

と最近友人と語ったが、それを少しばかり訂正しようと思う。

知識というのは、情報(データ)を知性で以て観察、解釈した結果その脳に記憶された主観的な物であると再定義しようと思う。

人名、地名それに歴史に数字、円周率…様々な情報が溢れている。先日は、情報とそれへのaccessibilityの変化が人間の感性にどのような影響を与えるかを軽く書いたが、今回は焦点が違う。

 

流れてくる情報は、それだけではただの情報であり知識ではないと思う。知識という言葉にはその情報を自分なりにこねくり回した手垢がついている。だから、知識も人によって変わる。

確かに、年号や数字などの具体的な情報に対しては手垢をつけるまでもないだろう。しかし、人物や思想の情報を学んでも、個人個人でそれらに対する印象は異なる。

たとえ同じ教科書で学んでも、太宰を敬愛するようになる人がいる一方で軽蔑する人もいる。人の数だけ解釈の方法、論理の歩み方、視点というものが存在している。

これこそが知識ではなく、「知性」なのだ。知性はどれ一つ同じものはなく、血のつながりのある家族でも全く異なるし、産まれて数が月の双子の幼児でさえ僅かに異なっているだろう。

このことは、当たり前のことであるにも関わらず分かっていない人々は案外多い。いや、正確に言えば理解しているのに理解していないふりをしようと努めているようだ。

すなわち、知性のない人もしくは知性があっても優しさのない人々である。

 

さて、少しずれたが知性と知識の私的定義を再確認しよう。

 

知性とは、その人間が物事を解釈する際に使用する虫眼鏡のようなもののことだ。

知性を通して、もしくは知性を用いてあらゆる事象を観察、解釈することで人はその脳に記憶を蓄積する。そしてこの解釈中につけられた思考の轍は、経験として残り続ける。記憶、そして思考の轍は知性へとフィードバックされて刹那刹那で人の知性を変えていく。

 

知識とは、知性によって解釈された情報の結果だ。情報は万人に等価だが、知識は万人によってそれぞれ異なる。その点を勘違いしてはいけない。

 

以上が今夜私が定義した、解釈した知性と知識というものである。

明日にはきっと変わっていることだろうから、真に受けないように。