愛と性
愛というものを議論する事は多いが、そこに性を絡めて話すことも少なくない。
つまりは愛し合う行為に、本当に愛なんてものが存在するのかどうか。
これは、特定の人への愛からその行為にいたる事だけではないことから行為に愛が必要、あるいは愛するから行為へ結びつくという仮説は否定される。
この事でよく言われるのは、「人間の生物学的本能が~」ということだろう。
確かに人間は生物であるが故に、生物学的特性から個体増殖、種の存続というものへ無意識な欲求が脳のモジュールに組み込まれている。
これは生物であるがゆえに逃れる事はできない。
しかし、これにも反例はある。一つはLGBTと呼称されるようになった人たちである。
彼等は種の存続をすることが不可能なのにも関わらず、同性と愛しあう(最近は過去と比べて社会的に許容される風潮があり私は安心した。別に私自身がそうであるのではないが、欲望の形は人それぞれであるから、それを許容できる社会でなければならないと思っているが故に)。
さて、そうした生物学的欲求から矛盾しているのに行為をすることから、これは行為が愛から端を発しているとも言えるだろう。
愛がなくても行為への欲求は生じ、また生物的な欲求が満たされなくても愛する。
愛というものは、難しい。
分からない、とも言える。
何が分からないのか、という事自体が分からない。
何よりも身近にあるにも関わらず、その実体を見ることが出来ない。
物質的なものでは説明することが困難な程に愛というものへ鑑賞するパラメータは多く、さらにその経路も極めて複雑だ。どこまでも広がる迷路のよう。
愛がなくても生物学的特性から行為をして、また種的な欲求から解放されて愛する。
この2つの事例から「愛」と「性」というものは独立して考えなくてはいけない事が分かる。
生物学的に性行為の対象に成り得ない「物体」や「他の生物種」を愛する人もいる。
万人への愛というものも言われる程に、「愛」というものは柔軟なもののようだ。
人によってその形、色、香りが変わる。
一つとして同じものはなく、それぞれの間に存在する差異が非自己を愛するポテンシャルとなる可能性もある。
自分が持っていないもの、自分とは異なる部分を相手に求めることも愛の一つの形である。
尊敬できる部分などと表されることもある。
愛というものは、本当に多様だね。