Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

恐らく人生最後の入試の為夏休みはありませぬ

今週のお題「夏休み」

もう世間は夏休みに入っているらしい。

私は人生最後の入試(にしたい)大学院入試に向けた最終調整のため、全く夏休みがない。散髪に行くくらいだろうか。少なくとも、8月一杯は学問の密林を掻き分け進むことになる。

 

生物系から機械系に移るレアケースな為、通常4年間で学ぶ入試科目を5か月で学ばなければならず、4月から結構な時間を費やしてきた訳だが、実際とても得るものが多かった。

理学部生物系統の研究をする場だと、数学や物理を深く迄は学ばなくても多少は進んで行ける。しかし、修士博士と先へ進むという時になってから、それらが柵となってしまう。

学部時代から色々な科目を学ぶことができたのは、とても有意義なもので特に事象の解釈にはダイレクトに効いてくる。

教授の方々とディスカッションする時、理学的見地、工学的見地それぞれの見方を獲得する事は、研究をする上で非常に大切なことだとひしひしと感じる。

一方から見たら問題にもならないようなことでも、もう一方から見たら非常に重要なことだ、ということは研究に限らず多くのケースで見られる認識、価値判断の差異だろう。

物事は多面的に見なければいけないし、言葉はその差異を埋めるために有用なツールとなる(論文などを考慮すると英語)。

そうして、コミュニケーションをする相手の専門用語を理解する為に勉強というものをする。

人が学ぶ理由は、生きていく上で他者との対話の時に困らないよう備える為だ。

それ以外に勉強する理由はない。

多くの学生が勘違いしているが、勉強するのは自分の為という側面と他者の為という側面の二面性を持っている行為であり、怠惰にならない限りは結果が返ってくる素晴らしいものだ。

 

しかし、研究はそうはいかない。教科書を読む行為ではなく、書く行為である為に路は未知に満ち満ちている(遺影)。それ故に賭ける量に対して得られる量は少ない、もしくは返ってくるまで時間がかかる。もっと辛抱強く、力を向けなければ殻を破ること不可能だ。

 

現在の日本は、勉強だけに過剰に力を入れている。研究者の待遇は、殆ど戦後の間変わっていないのではないだろうか。

 

もっと国として、研究というものに力を入れて欲しいと思うのだが....。