魂の質量と楽しい終活
今週のお題「空の写真」
人は死ぬと、空に飛んでいくらしい。
肉体を捨てて、魂という名前だったり霊魂という名前だったり、色々な呼び名がある非物質的存在になり浮遊するというのだ。
過去には「魂の質量」の計測をしたと発表した人間がいた。米国のダンカン・マクドゥーガル医師だ。彼は、人と犬の死の前後における体重の変化を測定することによって、犬では体重の変化が確認できず、人間では21g(だったかな?)の減少を確認したらしい。このことは、人間には犬が持ち得ていなかった某かが有り、死と共に身体から抜けていった。これが魂だ。という主張をしていたらしい。
しかし、この手法で測定された「魂の質量」は残念ながら間違っている。詳細は省略するが、代謝の停止、呼吸の停止などによって体重の減少は自然発生的に生じる事が分かっており、これは科学的見地からの理由付けがなされている。
また、犬と人ではサイズの差があるのだから、犬の方で生じる変化は人より微々たるものになり、彼の行った実験の精度の低さ、解像度の低さは否めない。
では、人が言う(人しか意思を伴って喋れない)魂とは何なのか。それは質量をもつような物質的なものなのか。それとも、ただの幻想なのか。人は死んだら空に飛んでいくのか。
私はこの問いに対する解答を持ち合わせていない。分からない。
何故なら、私は死んでいない。
だから分からないのだが、死んだら皆話せなくなるのだから、死後どうなるか知っている人間は既に死んでいる。
つまり 無 なのだ。
死んだら無くなる。
その思考、その精神、その暖かさが消失する。
死の後には何も産まれない。
Nothing
なのだ。
魂が残るはず、私には霊魂がみえる
という人はいるだろう。
そして、それは正しい。
ただし、その人にとって。
私にとっては、無でしかない。
それ以上もそれ以下も無い。
これは別に悲観することでもないが、皆恐れるようだ。だから魂や霊に己の願いを投影している。
総じて、そのような霊というものは人間の儚い祈りによって産まれる美しいものなのかもしれない。
あなたにとって存在する
私にとっては存在しない
すべての存在というものは、そのように定義付けられる。私達の生も、夢のようなものでしかない。
死ぬことで長い夢から覚める。
「死んでいる時が正常で、生きている事の方が異常」のような言葉を、どこかで読んだ記憶がある。それも、幻想だろうか。
死は消失なだけであり、それ自体は恐ろしいものではない。むしろ、それ以上の苦痛がないという意味では安定なのだ。
それでも、私はまだ死ぬ予定は無い。
期限があるということを、大体の人は遠い未来の出来事としている。(遠い未来の事に楽観的なのは悪いことではない。目の前の事には、悲観的であるべきだとは思うけれど。)
推測ではあと63年は生きる可能性がある。
その間は、全力で楽しもうと思う。
産まれた瞬間から、終活なんて始まっている。
折角なら素敵で楽しい終活をしたい。
やりたいことが沢山ある(行きたい場所はそんなに多くはないが)。
やりたいことに胸を踊らせる(病気みたいだけど)毎日なんて、素敵じゃないか。
好きな人と好きな場所で好きなことをしたい。
そうやって此の世界の片隅で、誰かに干渉したい。そうして死んでいきたいのかもしれない。
あぁ、でも死ぬなら独りで死にたいかもしれない。
猫みたいに、ふっと気まぐれに。