Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

仙台散歩 I

仙台の街を歩いていると、意外にも路傍に咲く花が多い・。

花が好きな私からすれば嬉しい限りだ。

さて、何故花は美しいのか

美とは何に宿るのかは私の中の探求しているテーマの1つであるが
花の美とは何かを考えてみた。

花は植物であり、種から成長し地を這うようにして身体を広げて花を咲かせるものや
高く高く伸びて太陽に手を伸ばすようにして花を咲かせるものもある。

それぞれに成長の仕方、花の形、色が異なりそのバリエーションは同じ個体からでも
若干異なる花が咲くほどに富んでいる。

全く同一パターンの花は世界に1つもないのだろう。それは人も同じだが。

そういった多種多様な花が持つ美しさの共通項とは一体何か。

私が思うに、それは時間スパンの短さゆえにみることが出来る彼等の死に由来している。
つまりは散っていく、枯れてゆく姿だ。

私達人間や他の哺乳類や魚類などは短くても数か月の命だったりする。
人間の寿命は年々増加しているように見かけ上は見えていて、既に人生100年時代という言葉も産まれるほどだ。
各国で高齢化が将来の問題点として挙げられる中、日本は高齢化のパイオニアになろうとしている。

そんな長い人生の中で、私達は何度花の死をみるだろうか。
花は長くても1か月もしない内に死んでしまう。

他の大型生物や比較的高等な種とされているものたちの近縁と比較して驚くべき短さだ。
もちろん、花をつける植物そのものは花が散っても生きてはいるし、いちいち死んでいたら、
桜を毎年楽しむことなんて出来ないだろう。それはそれで静かで素敵かもしれない。

しかし花にだけ焦点を当てると、それは咲いてから散る過程で全ての生を全うしているとみなせる。
非常に短いにも関わらず、その生はまさに華々しい。他の生物と協調して、自らの種子を未来へ運んでいく。

そんな花の生における美とはどこにあるのか。
咲いた瞬間か、全て散った姿か、花をみせる蕾の間か。
私の解はこうだ。
花の美は、散っていく中にみえる崩壊曲線に収斂されている。
咲いてから、少しずつ花は死に向かって進んでいく。

花弁の色は褪せ、しぼみ、散る。

その命は、まるで美しい曲線にのり予定調和の生をつとめあげる。

私はその中に、花の美をみる。

時間を変え、その花の変遷を眺める。

近い将来消えゆく姿、散るその姿に美が宿る。

あらゆるものは流れる水のように一か所に留まることはできない。

変わらずにはいられないのだということを、花は示してくれる。

あの歌人が詠ったように。

特に花は、その生が身短いこそ我々の眼に見える形でその生の変遷が進む。
人間ではこうもいかない。
美を感じるには私たちの感性はあまりに愚鈍すぎるし、今に焦点を当てすぎだからだ。

人の生に美を感じるには、どうしたらよいのか。

その解を、私は自らの人生を賭して見つけなければならない。

本来これは、全ての人間が思考し追求せねばならない命題だが、
考え続けるには、
人生は、あまりに長過ぎる。

仙台の路傍でパシャリ。
この世に生きる、全ての羊達へ。
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