Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

何かを、愛した人となら

研究という事をしていると敏感になるのだが、実生活の会話の多くで聴く主張が意見しか言っていない事に辟易する。「◯◯をしたいのです。」と夢を語る事はいいし、持っていることは素敵なことだし、周囲に人達の夢は積極的に応援したくなる。

 

しかし、その夢を果たす為にやっていることがすかすかで実を伴っていない。特に研究では

「◯◯を研究したいのです。」と主張すると必ず

「何故その研究がしたいのですか?」

と聴かれる。つまり「あなたの研究に対するモチベーションの在処」を遠回しに聞かれている。これはどの仕事でも同じかもしれないが。さて、ここでどのように返すかが重要である。

 

特に研究という行為は研究対象を愛する行為であると同時に修飾する行為であると考えている。

つまり対象へ自分の命の時間を捧げて試行し、観察し、考察して理論を構築する。これだけでは非常に堅苦しくなるが、すなわちは対象を想う事、愛する事なのだ。そして愛することができる研究者は研究対象からも愛される可能性が上がる。

つまりは風向きが良くなる可能性が向上する。そうして研究者は独自の論理を構築する訳だが、そこからは打算的な話になってしまう。修飾する行為は対外向けの、非自己向けへ研究対象の素晴らしさをアピールする為の好意であり色々と経済的な話に迷い込みそうなので今は深く入り込まない。

 

重要なのはまず愛するという行為なのだ。

愛しているからこそ、様々に思考し自分だけの論理の路ができる。

人間の思考の、のようなものが。

この強い芯は愛する行為を経験した人間でなくては形成されない。

夢は大きく語るが中身が伴っていない、行動や理念が欠けている人というのはこういった芯が欠落している。

しかし、芯の無い人間ほど色々な物事に対して無益な意見や誹謗中傷を行ったりする。建設的ではなく、ただただ人の時間を奪う不愉快極まりない行為である。

中国人の友人から聞いた昔の諺にはこういうものがあるようだ。

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3つの壺が目の前にあることを想像して欲しい。その中にはそれぞれ水が入っている。

1つには満杯まで水が入っている。1つには全く何も入ってはいない。1つには中途半端に全体の5分の2程の水が入っている。これらをそれぞれ揺らす。

すると満杯まで水が入っている壺と何も入っていない壺からは何の音もしないが、中途半端に水が入っている壺からはバシャバシャと煩く音が鳴る。

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この諺で壺は人、水は経験を表しているのだそうだ。つまり、豊富な経験をしているものと未経験の人間は多くを語らない、語れないが中途半端に経験している知ったかぶりさん程口煩く色々騒ぐ。というようなニュアンスのアイロニーらしい。

 

何か一つでも愛するものがある人は、満杯の壺を持っている。が、それを怠った人は中途半端にしか水が入っていない壺しか持っていない。その癖やかましいのだから、質が悪い。経験が伴わない、他人の言葉だけで大層な事を語る人間がいる。私はそういう人間が好きではない。

 

芯がある人は、水で満たされた壺を持っている人だ。愛が溢れている。対して芯の無い人間は、愛することをせず愛されなかった故に他人を思いやることができない、優しくなれない。憐れな人間だ。

 

私は、優しさこそが人間の「勁さ」だと思う。

人を思いやり、出来なくとも相手の気持ちを汲み取ろうと努める姿には好感を抱く。それは他人の痛みを理解することであり、自分自身の心にも痛みを伴う。それでも、傷つくこと、痛みを伴うことだと理解しながらも生きる人は美しく勁い、優しい人になれる。

 

そのような、優しい人となら、私は友達になれるだろう。