夢と執着、そしていり交じる一匙の恋
多くの人は、子供の頃に壮大な夢を持っていただろう。
空を飛びたいというファンタジーなものからプロサッカー選手やパイロットなど。
しかし年を重ねていくうちに、自分には到底不可能なことだと諦めて日々を過ごすようになる。過去の自分と同じ夢を持ってる子供たちをみて微笑ましく思えるのは、素直な応援の気持ちもあれば、
「きっと無理だろうけど、まぁ頑張れよ」
というような憐れみを染み込ませたように微笑む人もいる。
夢というのは大概が叶わない。叶わないというよりは叶うまで続ける前に多くの人が棄ててしまう、忘れてしまう。小学生の頃に誓った愛なんて中学生になる頃には、風に吹き飛ばされてどこかへいってしまう。
人生の各段階で夢は更新される。新しい夢を持って人生を歩んでいく。路の途中には、旧くなって棄ててしまった夢の欠片がたくさん落ちていることだろう。
そんな中で時々、同じ夢を持ち続けている人がいる。
気付けば周囲からは同じ夢を持っている人がいなくなって、
ひとりぽっちで荒野を歩く人。
向かい風は強く、砂塵が舞って肌は傷つき目も霞む。
社会からの同調圧力、近しい人からの甘い諦念と妥協の誘いにも目を向けず、ただ夢をその手に掴む為に、彼等は歩く。
「あいつも、いつまであんなことやってんだよ」
「いい加減自分の歳考えろよな」
「子供みたいなこと言ってないで、さっさと安定しなさい」
周囲からの眼は冷たい事が多い。
しかし往々にしてそのような言葉を撃ってくる人たちは夢を棄ててしまった人たちだ。そして彼等は夢を棄ててしまったことさえも忘れている羊たちなのだ。
忘れる事は楽だ。
自分で自分を縛り付けることもしなくていい。
多数の中にいた方が生存には有利だ。
だからこそ、羊たる人々の人生もそれはそれで良いものだと思う。
しかし、夢を持ち続ける人々が夢という枷で自分自身を縛り付けるのは、
そうしなければ歩み続ける足が地面から吹き飛ばされてしまって、夢を追い続けることが出来なくなるからだ。しっかりしがみついていないと、その路を歩みつづける事は出来ず羊たちと同じようになる。
そうなることを、自分自身が赦せない。
そんな人は、夢を持ち続ける。
どうしようもない程に身を焦がす情熱、執念が身を動かさずにはいられない。
夢を持っている時は、自分自身の内部に炎を宿しているが、夢を棄てたらそこから火の手が上がり自分の外側から後悔という名の冷たい炎が身を焼くのだ。
未練を残しているだけだという人もいる。中途半端に追い続けるというのは、もう消え入りそうな火種に湿気った薪をくべる事と等しい。
火は付きにくいし、むしろ悪影響の方が大きい。夢は中途半端に持ち続けてはいけない。その行為は美しくなく、己を苦しめることになるだろう。どっちつかずになり、黒焦げになるのが目に見えている。
なら、どうすればいいのか。
最適解は存在する。
実にシンプルなことだ。
それなのに、案外人はシンプルな事を続けることは難しいようだ。
私的最適解は以下の通りである。
未練ではなく執念、執着と言われるほどに没頭すれば良い。
中途半端は良くない。それならむしろ、全ての夢を棄ててしまった方が良い。
夢に全てを賭けるのも手だろうし、それで成功する人もいる。あらゆることで成功する人もいるが多くの人はそんなに天才ではないと観測している。それに、私のように器用ではない人が多いと思う。それならば、自分が抱えている全てに全身全霊を持って臨めばいい。
器用さなんてなくても、経験という旗を掲げて色々な事に挑戦すれば良い。
不器用だからこそ、続けることは得意かもしれない。
人生楽しいばかりではなく、色々な天気がある。楽しまなければもったいない。
一緒に楽しんでくれる人が隣にいると、やはり心強いものだ。
互いの夢を尊重し、吹き飛ばされそうになった時に手を貸してくれる人が理想のぱーパートナーかもしれない。
夢を持って、心の中で執着にも似た炎を燃やしながら光のように突き進む。
そうしていれば、自分らしくいられる。
だから、私は今日も、夢を追い続けてみようとおもう。