今年も半年を過ぎそうだという時に、梅雨が本格化
ここ数日は雨模様でじめじめしている。
梅雨時期というのはどうしても、新海誠氏の作品「言の葉の庭」を思い出してしまう。
あの作品では、雨の表現が細やかかつ爽やか。アニメーションではなく、まるで本物と見紛う程であった。
そして、舞台は新宿御苑だった。4年という歳月を東京で過ごす中で、件の舞台には10度程足を運んだだろうか。背の高いビルが林立し、蜘蛛の巣のように都内各地へ路線を伸ばすまさに都会のへそである新宿駅から歩いて数分の場所にそこはあった。
初めて行った時は、ただただそこが映画の舞台であることを意識して行ったが、都会の中心であるにも関わらず、人が少ない避人地である。
海外からの観光客や、休日は家族連れも少なくない。
しかし、平日の昼間には人が驚くほどいない。
大学生の時分、私は一時期自分を見失った。そんな時、そこに行けば見失った何かを見つけられるとでも思ったのか今となっては分からなくなってしまったが、新宿御苑に散歩へ出たものだ。私は考えるとき、よく外へ散歩に出る。
「自分が本当にしたいことってなんだ?」、「本当にこのまま進んでいいのか?」、「大学の喧騒にどうしても馴染めない」、「今の環境でやっていけるのか?」...
ありがちな理由だ。大人からすれば「自惚れ大学生の葛藤だ。」と一笑に付されるか、まだ尻の青かった過去の自分と重ねて同情されるかだろう。
みなさんもあるのではないだろうか。
自分とは何か、生きる意味とは何か、そういった解のない問いに思考の大半を支配された経験が。
さらに厄介なことに、これらの問と共に生まれる「形のない不安」。これは何をしても払拭できない。運動してもゲームをしても誰かに相談しても一人で延々と悩んでも。
そうして、その「形のない不安」は次第に心を蝕んでいく。
世界から色を奪い、音を消し、心の弾力を奪っていく。
精神的に言えば、死に漸近していったのだろう。生きる身体と死んでいく心の歯車が噛合わず、胸の辺りがぐぐぐっと苦しくなる。
心は身体との溝を埋めようとするが、身体は溝を広げようと、まさに必死だ。
きっと溝が埋まってしまった人も少なくなかっただろう。私は後に同じような不安を感じて自死した作家を知った。
35歳にして此の世を去った、皆様もよく知る作家 芥川 龍之介 である。
彼も「ぼんやりとした不安」に苦しめられていた。苦しみながらも書くことを続けていた。
しかしついには、彼は不安との決別を果たしたのだ。
あの頃の私には、彼がひどく羨ましく思えたものだ。
不安は未だ、私の隣で微笑んでいる。