Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

友と語れば Ⅰ

私は、人に不足しているものに「対話」があると思う.人それぞれで言葉の幅やニュアンスが異なるにも関わらず、それを補完せずに話を進める先延ばしにすることで生じる溝を放置する傾向が高い。気付いたときには取り返しのつかない程、溝が大きくなっている.

 

また他者との対話然り、自己との対話も不足している.
そうして「分かった」気でいて考えない癖が今日の人に付いている可能性が高い.
これは情報社会というものの齎した側面の1つである。 検索すれば既存の知識へ瞬時にアクセス出来るが、それは自己から発生したものではなく思考した結果ではない.つまりは考えなくてもデータを手に入れられる時代では、遠回りも失敗もせずに解に辿り着いてしまうわけだ.
これは由々しき事態であるが、認識している人は少ない、もしくは効率的に考えて省エネルギーであるからそちらを選んでいるということだろう.無意識的に後者の人が多いように感じられる.つまりは面倒くさい訳だ.


私は思考体力思考の鋭利さの指標として「知性」という言葉を使用するがそれと似た言葉での「知識」という言葉がある。これは私にとって単なるデータであってそれ以上でもそれ以下でもない。そして、一部の天才を除いて、知性 を後天的に獲得する為にはその苗床となる 知識 が必要になる。

 

私は知識不足であり知性脆弱な人間だが、先刻私と語り合った友( O氏 )は非常に膨大な知識を保有しており、それに裏打ちされた知性を獲得している尊敬する友人だ(年齢が私は低いので、私程度が友人と言ってしまっていいのか許可を取っていないが)。

幾らほどその脳内にデータが詰まっているのか気になるほどスラスラと色々な事を話してくれる。そうして知性を見せてくれるのだが、私にはどちらも圧倒的に不足している。彼の歩んできた路に、素直に敬意を表したい。見習わなければならない。

 

O氏の専門は何かと問われれば

「Nothing, ....

                               .... Everything」(両腕に力を込めて)

とでも例えればいいのだろうか(笑)。

カバー範囲が広すぎて例えるのも憚られる。

私はと言えば専門性が高い事しか知識として知らず、それも一見生活には役立ちそうにない事ばかりだ(人工代謝系や人工細胞小器官などと言っても????だろう)。彼に会うといつもその知識に裏打ちされた知性に圧倒される(平静を装いながら)。そうして周囲にそういった人達が多いわりになんと浅く薄い我が知性か、と嘆くことが多い。私は天才ではなく凡才であるので、知識をまず獲得しなければ知性を育むことがかなわない人間であるから取敢えずデータの収集をかかす事の無いようにしようと心掛けようと思う。

 

先刻したO氏との話題は多岐に渡り「絵画、結婚、死生、詩、人生、人間、幸福etc...」との具合だ。具体的なところから抽象的なところまで話が及んだ。杯を傾けつつ、外で風を感じながら友と語らう時間は非常に幸福に包まれていた。このような空間が日常的に広がっていけば、きっと戦争なんて非合理的かつエネルギーの無駄使いな行為は消え去るというのになぁ、なんてハンモックに揺られながら考えた。

冒頭に戻るが、「対話」が足りないのだ。どんな形でも良いから、兎に角対話すること。お互いの言葉の差異を補完、認識して共に最適解を目指す事で、より人間関係というもの、そして自分自身というものを改良、改善することが可能だろう。

各所で起こる不具合の多くは人間の認識のズレが原因となる。対症療法では溝は埋まらない。

根本的なズレの修正が必要であり効果的だが、人が何故それを敬遠するのか。

それは、やっぱり面倒くさいからだろう。

しかし、私からしたらそれで関係が腐ったりする方が至極面倒なのだが。

皆さんはいかがだろうか?