Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

「場」を作ってみようと思う Ⅰ

先日O氏と話している中で、こういう話があった。

「図書館は静かであってはならない。語り合う場所でなくてはならない。」

常識的に図書館では沈黙が要求される。誰かの集中を乱すことは良くないことだ、と。これは確かに一理あるだろう。私はHSPの気があるから、煩い音や僅かな音でも集中力を欠いたり、不安を覚えたりするから理解しやすい。実際、人間の集中力は音楽を聴いたりしていると低下する、注意力が散漫になる可能性が高い。

しかし、本を読むこと・語りあうこと この2つは共にある方が良いと思う。正確に言えば、自己が得たものは他者が得たものと異なる事が当たり前の前提だ。

同じ本でも、捉え方は人によって違う。そうしたところで生じる認識の違い、価値観の多様性、感性の豊富さを互いにより理解する必要があると思う。それは人を知る事であると同時に己を知る事だ。自分一人の世界があるなら、そこは他のものとの相互作用が生じないということで、自分自身を知覚する事が困難になる。自己こそが世界の全てとなって完結してしまう。

他者がいるから、人には未知があり、哀しみがあり、愛がある。他者と互いに反応する事で気付けることはある。一握りの天才は独力で気付けるかもしれない。しかし私は弱者で、きっとそこまで強者が世の中にはびこっているとは思えない。

だから共に語り合い、歩んでいくことで私たちは世界を知り、己を知り、未知を解明しまた新しい未知に挑む。人間の歴史というものは、その繰り返しなのだ。

さて冒頭に戻そう。「図書館で語り合う」という一見矛盾に思える行為だが、対話は非常に重要なことだと心底思っている。

何が重要なのかというと、相互理解という点は言わずもがなだが、知識の流動性を高めることが可能だからだ。一人では伸ばせる枝葉に限界がある。目は二つ、耳は二つ、脳は一つだけだ。人間はそこまで器用じゃない。そんな時に、他の誰かが手にした知見、価値観を誰かと共有する。一人では知り得なかったことを知ることができる。

しかし、ここで考えるのは「実際に会う必要性があるのか?」ということだ。

現代、データはそこかしこにあり、また自分の意見や読んだ本、映画、絵画の感想を簡単にアウトプットでき他者と共有可能だ。そんなアクセサビリティ―の高い時代に、物理的に会う事に果たして価値はあるのだろうか?

続きは、またいつか。

To Be Continued.......