透明標本を観て
昨日、透明標本の展示会(@仙台)があるとのことで興味津々で参戦した。
過去に何度か透明標本自体は観たことがあったが、一度にあんなに沢山は観たことが無かったし、標本の用途によってもqualityが段違いという事が分かった。私が今まで観ていたのは、研究用の標本であった。それらと比べると、美術品のような作品達だった。
生きていた間存在していた肉などが分解、透明化されて本来見えるはずのない中の骨格や構成成分の分布を色彩豊かに観ることが出来る非常に良い観察対象だった。
私が研究対象としているものは、骨格を獲得する事からは程遠い原始的な生命のようなものであるから、その造形美には畏怖の念さえ抱く。
「この骨が此処にあることで、あのような動きが可能なのか」、「角や毒針って中はこのようになっているのか」などなど新しい発見が沢山で、私の心は刺激されまくり知的快楽を感じることが出来た。
特に、作者の美への追及心を垣間見る事が出来た(気になっている)事だ。それほどに美しく、生命というものを感じる死体だった。
死体だからこそ、そこにみえた生命の歴史とその痕跡を感じることが出来るのかもしれない。死体にさえも美を感じる。人間は凄いものだ。
あることが分かる(正確に言えば、自身で納得するような理由付けが可能となる)と、そこから新たな疑問が産まれてくる。
例えば、展示の中に鳥類の骨格があり、それの説明に「飛ぶことに適した形であり~」という言葉や「~に適した形に最適に進化しており」という記述が見受けられた。これらは確かに人間が観測し得る地球環境条件においては最適であると言えよう。しかし、より長い時間スパンで考えた場合、起こる環境変化に応じてきっとこの骨格はその都度最適化されるだろうなぁ、と感じた。
そして
どのように最適化が起こるのか
どのような条件が支配的になるのか
などなどの疑問が湧いてくるのだ。
ある種、私の研究はそこにアプローチすることが出来るかもしれないが、いかんせん未だ細胞一つ創ることが難しい時代だ。
今後、より研究に精進せねばなるまい。
そう、改めて考えさせられた素晴らしい展示だった。
機会があれば(大抵の事は、気が向けば)ふらりと立ち寄ってみると良いかもしれない。