季節と、その死。そして、あの人
季節が変わる節目には世界の匂いが変わる。毎日変化はしているのだが、顕著になるのが季節の変わり目だ。
そして、その匂いには色がある。
匂いも色も、とても儚げで美しい。季節が死に新たに産まれる期間、おそらく漂っていたのは季節の死臭だ。季節が死ぬ時に放たれてくる死臭はひどく淡くいて、多くの人の心に強く干渉する。
日本は四季のある国だ。春夏秋冬、1年の時間をかけて4つの季節が循環している。それぞれに美しいものがあるとされ、文化的な豊かさも四季の移ろいに由来するところもあるだろう。年に4種類の季節を体感するということは、少なくとも1年には3回季節の死を体験する事になる。季節の変わり目に体調を崩したり、精神が不安定になることが多いのは、きっと彼等の死を感じそれに共鳴しているからだ。美しい死に引っ張られているとも言える。「環境型ウェルテル効果」とでも言おうか。これは案外強力なようである。
私達は季節の死体を目にすることはできないが、彼等の死が誘発する変革は日常的によく見かける。枯れゆく花の移ろい、聴こえなくなる蟲の声、裸になってゆく樹木、溶けていく白い雪。数ヶ月という短いスパンで普遍的な風景が変わっていく。これは、その短いスパンで命が終わっているということだ。花も蟲も葉も雪も。非生命なんて野暮なことを此処では言わない。
みな、その生という一瞬に、閃光のように生きている。
後先を考えず、彼等は生きて、死んでいく。
それは、とても高尚なことだ。何よりも美しく、そして儚い。
打ち上げ花火が空で華々しく爆発し、散っていく花弁のような美がそこにある。
空から光の尾が地上に向けて堕ちてくる。花火の中の美しさはその光に濃縮されている。
とろりとした濃密な美が私たちのもとに降ってくる。
それに包まれるように消える事が出来たら、あぁ、どれだけ安らかだろうか。
しんしんと降る純白の雪の下で、何も聴こえない白の世界で、気付いたら彼等と一緒に溶けて消えていた。そんな生き方もまた美しい。
静寂がある。それが雪の矛盾的性質であり、美的要素である。
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紫陽花が咲く今の季節、彼等を目にする度に私はある人を想い出す。見つけるたびに眺めてしまう。そうしていると、花の反対側からそっとあの人が出てくるんじゃないかと思ってしまう。それを、何処かで期待している。
その人は、何にもたとえられない人だ。その人はその人以外の何者でもなかった。少なくとも、私にとっては(以下、その人=Aとする)。
Aは私よりはるかに深い思考の持ち主で、知性も私なぞ遠く及ばない。
それ故に、Aが何を考えているのかを推し量る事は出来なかった。
気まぐれな猫のようで、高く高くを飛ぶ白鷺のようで、優雅に泳ぐ魚のようだった。
遊ぶように尾を振り、踊るように游いでいる壮麗な姿。けれどその澄んだ眼で、海の中で空を映す。空を翔ける鳥を眺めている。
私はさらにそれを眺めるに留まり、その世界に最初から存在しないことを知ってしまった。
それからというもの、僕は蒼い海や魚達の色彩を失ってしまった。
それでも猶、白いいさなはその輝きを失うことは無かった。