Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

読書家という肩書き

何も学ぼうとしない人や学んだ気でいる人は自信を持てるのかもしれない.
それに対して、学ぶ意欲のある人、学んでいる最中の人は自信を持てない、持つことがおこがましいと考える傾向がある(恐らく自他共に).
私は、ある路のプロフェッショナルはその路の知識について、自信を持って「知っている」と言わないといけないと考えている.
それがプロフェッショナルということだし、それをビジネスにする/しているなら自信を持っていない事自体が不謹慎だろうと思う.
自らの技量、守備範囲を自覚してからそういった「肩書き」やらを語る事が無難で障害は少なくなる.

私は読書が好きで、少しは本を読んでいるのだが読書家を名乗るには読んできた本の冊数もジャンルも浅く狭い.だから「読書家」ではなく「読書見知り」程度だろう. 私はまだまだ読書という事を洗練しなければならない路の途中だ.
また、一時「速読」ブームのようなものがあったが、あれによって「読書」が「文字を目で追う行為」にしかなっていない人も多く生まれただろう.

「読書」は目線の運動ではなく、内容から想像し妄想に耽り、誰かを愛し愛され殺し殺され(ることは少ない)産まれ死ぬ等々の様々な物語を追体験することによって、記憶を己に還元する行為だ. その本質は、追体験することによって変化する己の内に秘める心の動きだ.決して追体験すること自体ではない.それも大変重要であるが、それは心のダイナミズムがあっての事だ. 「価値観の吸収と統合」と言っても良い.
これらの本質を伴わない空虚な読書をして欲しくはないし、私はしないように心掛けている(最近は無意識にできているようだが).
そうして、この行為を繰り返して「優しい」人になれた時に、私は「読書家」を名乗れると思うのだ.

私はまだまだ、「優しい」とは言えない.
だから読書家を名乗ることは、私にとってはおこがましいのだ.

はぁ


もっと、優しくなりたい(もっと本を読みたい).

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