Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

インドネシア人の友人が

研究関係でインドネシアの方々2人程に実験を教えたりした機会があった。

その時から今も仲良くしてくれている。

彼女たちは私が学士の時に留学で日本に来ていて、当時は修士だった。

そして最近無事に卒業したらしい。お祝いのメッセージにはすぐ返事が来た。覚えていた日本語に英語がミックスされて来たので少々面食らったが、久しぶりに話せて非常に楽しい。

その友人というのはみんな女性なのだが、皆さんも街中でみかけたことがあるであろう髪を布で隠している方々だった。他文化の方々との交流は宗教、文化そして言語の違いを濃密に感じる事ができる良い機会だ。日本人同士でも互いに大きな差があるが、社会的な制度や宗教の背景が違うと、もっと根本的な認識の差異を感じる。

 

しかし、それでも「科学」というものは認識の差異を個々人レベルまで下げてくれるからありがたい。研究の話になれば障壁は、互いの解釈の違い以外に存在しない。それはディスカッションで何とかなる。互いの考えを共有し語り合いより洗練することだけが重要だからだ。研究よりも日常での際は厄介だ。美味しい食べ物を一緒に食べたくてもそれが宗教的に禁じられていることも多かった。肉も(時には魚も)食べられないことがある。

 

同じ宗教でも規則の程度が違っていて捕獲から調理の仕方(血抜きの仕方など)によっては牛肉豚肉はダメだけど鶏肉は大丈夫という人もいたし完全なベジタリアンもいた。

 

そういった文化と宗教の差異はどうしたって存在するし。個々人の価値観の差異まで落とし込めればいいのだが、難しい場合もあるだろう。それでも、それらの宗教や文化を押し付けてこないという事が非常に重要になってくる。また、それらの背景から生じる可能性のある偏見に縛られない事も同様に重要だ。

 

この事を分かっていない人は、非常に多い。日本人は特にそうなのではないかと思う(←偏見)

あたかも自分が常識であると考えて行動する人があまりに多くて、辟易しながら乾いた微笑を浮かべているばかりだ。

 

優しさというものは、自分の持つ偏見というものを認識して、相手の偏見を理解し擦り合わせていったり妥協点をみつけるように努められる性質を言うのだろう。

 

そういった意味で、彼女たちは非常に優しかったし賢かった。

私も、優しくあれていただろうか。