Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

私が毎日幸福だと言う理由

自分の意識、認識以外は全て幻想、幻視に等しく等量に等価値で意味はない.

意味を見つけようと人はするけれど、実はそこに意味がないということを否定したいだけで.

こういったことを話せば、毎日が本当に幸せなのかと聴かれる.

幸せというのは個々人によって違うし、そもそも全く同一、同質な幸福なんてものは存在しない. 程度といった意味では概念的幸福は定義付けられるけれど、しかし本質的幸福(つまりは私的幸福)はその質を共有することはかなわない.

この世の全てに本質的な意味がないと、それを受け入れてからこそ、私の幸福は保証され始めた.

 

無意味であるが、それは無価値であるということと等価ではない.少なくとも、私にとっては非常に価値がある日々であり、私にとっては非常に幸福な日々だ.それ以上もそれ以下の概念も持つ必要性がない.

他人と共有できない、自分しか認識出来ないのなら、それに名付ける意味も形を与える意味もない.

 

つまりは、自らが幸福と肯定した刹那から、此の世界に価値が生じてそこから意味がない生じる.だから、「私は毎日が幸福だ」と定義した刹那から、此の世界は意味が生じるということで、本質は虚無だ.それを忘れたこともないし、忘れることは出来ないだろう.

 

だから、他者からすれば私はそこまで幸福な人間だとは思えないだろうし、自己の中にある自己は他者のその認識を肯定している.それでもいいのだ.矛盾を内包したその状態で、ある種非常に不安定な平衡状態で存在する事が、とても大切だ.

考えるべきは常に今と、一歩だけ先の未来.過去を振り返るのは誰かと語らう時と、どうしようもない時だけに限ることだ.

 

 

そうすれば、毎日が幸福だ.