Garden of Lapis Lazuli

刹那的生命の備忘録

科学の路を志して私は....

科学

 

その世界に、私はワクワクを感じた

先に見える可能性の世界に、光り輝くようなものをみた

 

 

 

 

はずだった

 

 

 

 

少しずつ、色々な事を学んでいくと、その世界の広大さ、深さに言葉を失った

先人たちが積み上げてきたもの、その高さ、膨大さに溺れてしまった

 

 

先が、全く見えない

 

 

夜空を見上げた先に広がる、闇のようで

底の無い海へ、永遠に沈んでいくようで

 

 

 

先に進めば進むほどに、強い重力に身体が軋み

何処からともなく矢が飛んでくるような

まるで、異星の戦場なのだ

 

そこで戦う者は皆、同じ闇に沈んでいく覚悟を持っているのかと、驚愕した

 

それぞれでみえている世界は違えども、厳しい世界であることに変わりはない

 

常に世界との競争で、休まる隙がない

 

昨日まで同じところにいたはずの友が、次の日には数キロ先を行っている可能性がある

何百時間、何百万とかけて行った研究が水泡と帰す事もあるのだ

 

 

 

 

過去の巨人たち、そして今戦っている者たち

 

 

私はただただ圧倒されるばかりで、太刀打ち出来る気がしなかった

 

 

 

科学の世界は、過去に見えていた世界とはまるで違う

 

 

 

 

 

 

 

地獄だった

 

 

 

 

 

 

いよいよ明日から - 日々の雑感 -

いよいよ明日から数日かけて、人生最後(にする)のキツい試験

4年間積み重ねてきた人間と、半年足らずの積み重ねで何処まで戦えるか分かりませんが、覚悟は誰よりもあります。

緊張で試験ではいつも心臓バクバクですが、気張っていきます。

応援してて下さい。

夏は夜


残暑と言っても、東北の夜はもう涼しい

風は人肌に優しいし、闇は誰よりもそばに寄り添ってくれる

気持ちが良くて、そのまま夜に溶けてしまいたいくらいだ

海月みたいに、夜の空気の中をふわっと彷徨っていきたいよ

そうすればきっと、さいごは誰かにそよぐ風になれると思うんだ

そう思わせてくれる夏の夜

私は今日も、夜に往く

私は芥川龍之介程強くはなかった

夜が怖かったころから、今は怖さがなくなってきたことについて


大学生の時分、私は夜というものが怖かった。



大学二年生の頃からだったか、あの時の私は「形のない不安」というものに毎日襲われていた。

これといって特定の物事というわけでもないのに、私は常に恐怖していた。

敢えてその不安に形を与えるなら、死への恐怖という言葉になるだろう。どうしてそんなに?と思うことだろう。それは、今になっても分からないのだ。分かっている事は、あの時私の足元は短い生の中で最も揺らいでいたという事だけである。

あの時、日常の隅々まで私は死への恐怖で怯えていた。


そして夜の闇は、まさに死の象徴のように感じていたのである。


夜が来る前に、家の中に入りたかった。闇を恐れていた。ダークネスフォビアとでも言うのだろうか。これはまさに「病み」なのかもしれないが、考える余裕はなく兎に角この不安から逃れようとした。

敢えて夜の街に出て無理矢理にでも慣れようと試みたこともある。しかし、夜の恐怖は私を逃がしてはくれなかった。

夜でも明るい渋谷の街や池袋の街に身を曝して、雑踏の中を兎に角歩いた。

目的地なんて、まるで分からないままに。


家では酒を飲んだ。悪いことに、私は酒に強いらしく中途半端に飲んでも酔わないし、恐怖はさらに加速してしまう。だから強いウィスキーをストレートやらロックやらで飲んで、酩酊に逃げた。

したたかに酔うと、恐怖が薄れていった。


あの時が、最も壊れていた時期だろう。

しかし、医者には罹らなかった。

いつの日にか、気付いたからだ。


死は、人生に寄り添う友だということに。

最期に傍にいるのは、孤独な死という友なのだ。

時に手を伸ばしてしまう程美しくて、心奪われる笑みを浮かべる友人だということに気付けば、夜ほど愛おしいものはない。

何処までも広がる、静寂で冷たい夜に沈んでいきたい欲に駆られてしまう程に。



今では、あの不安は感じていない。

それがまるで幸せに変わったかのように、毎日が幸せだ。




ありがとう


誰よりも寄り添ってくれる、最愛の友へ

生命と機械の違いはほぼない

生命と機械の違いとはなんだろう

有機的か無機的か

食べるのか食べないのか

脳があるのかないのか

などなど意見があるだろうが、まず有機的無機的な部分は次第に差が失くなってきている。
機械のマテリアル、部品がよりソフトにオーガニック(?)になってきているからだ。

私達はなにがしかの食べ物を食べて、そこから栄養やエネルギーを獲得したりするが、植物は食べない(食虫植物などを除けば)。
植物は水や養分を根から吸い上げるが、ならば機械は電気を吸い上げたりしている訳で、大きな差はないように思える。
加えて、太陽光でも稼働する機械は、擬似的に光合成をしているようなものだ。したがって、この差も失くなってきている。

脳があるのかないのか、というのは高等的な生物との違いでしかなく、さらに今は演算装置を内包しているロボットもある。これは「脳のようなもの」だろう(クオリティーは違うが)。

さて、生命と機械を隔てる壁は次第に崩壊している。
次第に機械は生命に近づいてきている。
これらが、いつの日にか生命になるのだろう。
近年は「生命」の定義、根底の探求も少しずつ盛んに行われるろうになっている。
私もその研究分野に身を置く人間であるから、そこらの流れには敏感でいなくては生きていけない(これは人間の証?)。

生命とは何か

生命と非生命を隔てる壁は何か


やはり生命を創れるようにならなければ、この命題の解は分からないのかもしれない

解けたとしても、きっと...

スタバとインスタントと私 -日々の雑感-

この前までピーチの限定フラペチーノだったが、いつのまにかキャラメル・スモアフラペチーノに変わっていた。

いつの間にか、時々スタバに行くようになった。
味で一番好きな商品はホワイト・モカにチョコレートソース追加である(白い豚と言われそうで戦々恐々)。なんだか落ち着ける味だからだが、シンプルなのも理由の一つだろう。

最近ではなんだか飾った物が衣食住全て浸透していて、スタバも様々な工夫をしているようだ。そんな デザイン過多な時代で、さらりとした感覚を与えてくれるものを、求めるようになったのだろうか。

しかしこう言っても私、期間限定(刹那的)なものに弱い。最近で言えば苺もプリンもレモンもピーチも、キャラメルスモアも全て試した。
こういった商品は味というより、もはや見た目を楽しむ目的で飲んでいる気がある。
特にフラペチーノは容器が透明であるから、中の粘性のある液体+固体の流動をみることが出来るのが楽しい。様々な色が混ざっていく様子は面白い。私は何かと「流れ」というものに惹かれるようだ。

簡単な例えを言えば、珈琲にミルクを少しずつ加えていく時に見える模様だ。あれは永遠にみていたいのに、容器も珈琲もミルクも有限であるから、不可能なのは悲しい現実だ(珈琲はブラックが好きなのでミルクはいれないけれど...)。

インスタントコーヒーもスターバックスも、私にとっての本質は美に支配されている「流れ」というものだ。生命、万物の本質だと思うからこそ、無意識に惹かれてしまうのだろう。

何はともあれ、スタバの美味しいよね。
勿論、インスタントコーヒーの方がコスパが良いけれど。

夏も終わるなぁ -日々の雑感-

今日はあまり暑くなかった
次第に鋭い暑さが引いていく
もう8月も終わるのだなぁとしみじみ

天気が不安定だからか、それとも部屋に閉じ籠っているからか、夏の暑さに苦しむ事が此の夏は少なかった
今から苦しむのかもしれないが、長くはないだろう

毎日毎日数学と物理の問題に向き合っている
もう少しで本番であるから、残りの溝を埋める作業と試験慣れの作業に執心している

しかしどれだけやっても、テストというのは苦手なもので絶対に緊張しまいベストコンディションの75%程度しか実力を発揮できない

悲しいかな

どうすれば、試験というものに慣れるのだろうか
秘訣を教えてもらいたい...

感情の凪

ー 記憶 ー
夜道を歩きながら、人の記憶というものについて考えてみた.
私たちの記憶は、いつの日か突然に始まり、そして突然終わっていく.まるで水底で生じた泡が川を揺蕩い、いつの間にか消えてなくなるように.

私たちの記憶、すなわち私達というものは皆須らく、
泡沫の夢なのだ.
人は、己の人生を夢想する.

全ての人は永遠の中の一瞬に生きている.

物理的な事物、精神的な事物と関わらずに全ては移り変わる.
刹那刹那で私たちは、新たな記憶を獲得しているという点で、過去の自己と異なる存在である.
同じ自己は二度とは存在せず、一息にその生を終えていく.
此の文を綴っている私自身も、生と死の狭間にいる存在であり常に変化し続けている.

仏教において、悟りを開くという事は言わば「此の世の万物はフィクションである」ということを理解し、達観する座標に移動することなのだと私は考えている.

そして自己を、此の世界を形成している根源は「記憶」なのだ.私たちは感情や理性様々な欲望というものに囲まれて生きている.
「悟る」ということは、これらの事象を遥か高い座標から眺めている状態に達することなのだろう.
広く深い海原に、ぽつんと一本の灯台が立っている.そこには一人しかいない.

どこから始まったか知れぬ長い長い階段を上がった先、灯台の先端から海を望めば、波のうねりや流れの方向、魚達の戯れや鳥達の舞踏が見える.これらが言うなれば「俗世」の物事であり灯台はその世界から隔絶された世界.
悟った者はその塔に登った人であり、凪の様な瞳をしてそれらを眺めている.幸や不幸というものからも離れ、喜びや哀しみさえも超克した存在.
それが仏なのだろう.

別に私は仏教というものに詳しいわけではないし、悟ることを勧めているわけでもない.

しかし、多くの人は変化してしまうものに固執し、執着し、希望を抱いているとは考えている.
それが悪い事とは言わないが、なんだか少しだけ幼い気がする(形容詞が適切ではないかもしれないが、今はこの言葉がしっくりきているのでこれで).
その様子は、まるでおもちゃを取られて泣きだす赤子のようである.そこには激しいエネルギーの放出があり感情の爆発があり、彩り鮮やかであるがその分崩壊する可能性も格段に高くなる.
精神にも肉体と同じように許容限界というものが存在する.
その容量を超えた場合はどこかに罅が生じたりそこから何かが漏れだしてしまう.
時には漏れ出した何かが言葉となり、電脳の海を彷徨った先で誰かに届いたりすることもあるだろう.
その「何か」をここでは「魂の痕跡」とでも定義するが、その痕跡に共鳴した場合、人はその出処に惹きつけられる.


閑話休題


「記憶」から大分話が脱線してしまったので、ここで少し軌道修正しよう.
人の人格や魂というものは、その起源を個々人の記憶に持っている.
アイデンティティの源とも言えよう.
記憶を失くすことはすなわちアイデンティティの喪失と同義である.
前述したように記憶は常に更新し続けられている.
つまりは自分自身が常に更新し続けられている.
その肉体も精神さえも.

誰かへの永遠と信じた想いでさえ、変わりゆくものなのだ.

それをそうと理解しながら、私達は永遠の誓いを結ぶべきだと考えることが増えた.
つまりは「期待しない」ということなのかもしれないが、それも少し安直すぎるので却下だ.
変わりゆくものであると理解しながら、それでも己の人生を他人の人生と共鳴させ、干渉し合いながら共に歩んでいくという決断は、とても気高く美しいものであると思うのだ.
「勁さ」というものも、その点に見い出されることがあるのかもしれない.

おすすめの「ホラー小説」2

前にお薦めのホラー小説を紹介しましたが、今回はその第二弾

 

夏も終盤にさしかかってきた今、また怖い物語を紹介しようかと。

怖いもの、肝試しやホラー映画は恐怖というより驚きの方が強く、本当のテロルを感じないものも多い。「わぁ!!」と大きな声を出して驚かす事には魅力を感じません(精一杯の強がり)。

 

本当の恐怖とは、何か

 

急に異世界に飛ばされて~や黄泉の国に引きずり込まれる~は非日常過ぎて恐怖とは違うものだと感じてしまいます。

 

そうではなく、どこまでも日常的なものにこそ恐怖を感じるのではないでしょうか。

例えば人通りの少ない夜道だったり、ふとした時に見る部屋の隅の暗がりであったり。

もしくは、未知のこと、可能性がある未来にも恐怖を抱くことがあります。もしかしたら起きるかもしれない物語。特に自分たちのごく身近な事にも関わらず、それについて知識がないことで陥ってしまったり。

近年そのような例として人工知能というものがあるでしょう。彼等について一般の人は何も知りません。知っていることとはたかが知れています。

だからこそ、人類が人工知能によって滅亡させられるなどなどの噂が出回るのです。人工知能が活用されている分野は、非常に多岐に渡ってきています。常に拡大している。日常生活のあらゆるところに進出し始めているのも関わらず、知識を持たないからこそ過度な恐怖を覚えるのです。これが未知ゆえの恐怖。

 

そして、これと同系統の恐怖を内包しているホラー小説をご紹介します。

それは

 

 

瀬名秀明氏 の 「パラサイト・イブ」

 

です。

この物語のキーになっているのは、私達が誰でも持っている身体。細胞の中に巣食う外からの侵入者にして共生者のミトコンドリアです。

 

聴いたことがある人もいるのではないでしょうか。高校生物を習っていると何度も出てきたかもしれません。オルガネラ、細胞小器官の一つであるミトコンドリア

この小さな分子の能力は非常に人体にとって、生物にとって大きいものです。なんてたって私達が動くエネルギーを作ってくれているのが彼らなのです。

詳しい話を書くと数日かかるので省略しますが、この頼れるミトコンドリアは元々違う生物だったとされています。原子の地球で、私達の祖先である小さな細胞に入り込んだか食べられたか分かりませんが、ある時を境に私達の一部になりました。一部になった彼等は私達にエネルギーを供給してくれる存在になったのですが、彼等は元々違う生物であるが故に我々とは違う独自の遺伝情報を持っています。

一部は我々の設計図であるゲノムに組み込まれましたが、まだいくらかの遺伝情報は彼等の中に在ります。

つまりは私達人間(他の生物もですが)の中には自分の「意志」で動くことのできる居候が住んでいるんです。たまたま今は休んでいるのか従っているのか分かりませんが、我々に協力的な彼ら。彼らは身体中のどこにでもいます。腕にも心臓にも脳にも。彼等がいなかったら私達はエネルギーを獲得できませんから、なくてはならない存在です。

 

しかし、もし彼らが独自の意志を持ち、私達の身体から出ていこうとしたり、はたまた身体自体をのっとってしまおうと動き出したら、私達はどうすることもできないかもしれません。

そしてその時は、もうあと数か月、数日、数時間かもしれない。急に身体が熱くなって意識が遠のいたら最後、もうミトコンドリアに貴方は支配されている....。

 

 

 

 

なんてね。

SFホラーな作品、あくまでフィクションですが、生化学的な見地からも楽しめ、小説の他にもゲームや映画などにもなっている作品です。

 

 

 

しかし実際、彼らは私たちとは違いますから。

 

いつか、私達のあずかり知らぬところで、動き出すかもしれません。

 

もう、動き出しているのかも。

 

 

身体の中の住人の気紛れには、くれぐれもご注意を(できませんが)。

研究オワコン日本チャチャチャ

数年前だろうか

将来なりたい職業ランキングの上位に「博士・研究者」が入ったと報道されていた

昨今では小学生~高校生のなりたい職業ランキングのベスト10の何処かに食い込んでいるらしいのだが、よく見るとこれは男子のランキングだけの話であり女子のランキングには入っていない

女性が研究者になることは、随分と昔は(最近までとも言える)推奨されていなかった
まったく理由には賛同しかねる
非常に非合理的な阿呆な意見でセンス、才能の芽が摘まれていった過去を思うと、本当に哀しい

現在は随分と「男女平等」やらと謳われているお陰で、殊アカデミック界の就職に関してはバイアスは減っていると推測される(アカデミアの世界でそんな偏見があったこと自体恥ずべき過去だろう)

しかし、やはり男女数の差というものは今まで培われてしまった分、解消するには時間がかかる

研究が重要だと声高に叫んでいる割りに、研究の主力たる大学院生を冷遇し、力をいれると意気込んでいるトピックスは数年前の海外の焼き直しに過ぎない

これではあと数年で「研究者・学者」という項目は将来の夢の項目から消えることだろう

まぁ、いずれにせよ先に進めば少しずつ母数が減ってしまうのだが、これ以上少なくなってしまえば、日本終焉の始まりだ

オリンピックで盛り上がるのは結構だが、正直あまり興味がない私からすると、一つのイベントに何兆円かけるなら少しでも研究費 補助費にまわして欲しいというのが本音だ

東京という街について II - 神保町 -

神保町と聴いて、どんなイメージを持っているだろうか.
古本屋、カレー屋、スキーetc.
一般的かつ端的に挙げればこういったイメージだと思う. 近くには大学も沢山ある為、学生の街というイメージもあるかもしれない.

私も東京に住んでいた頃にはよく行った. 幾つもある古書店は、全て廻るのに一体何日要するのかと思う程だ.

理系の私は時々明倫館(理工系専門書店)に行き参考書を見て回ったり、雑貨屋も多く時間はどれだけあっても飽きることがない街だ.
少し歩けば御茶ノ水やさらに歩けば東京大学、東京駅からも歩いてそれほどかからない(自己基準).

何だか冴えない日も、むしゃくしゃした日もワクワクな日も神保町に出向けば気分は上がる.

本好きにはたまらないし、カレー好きにもたまらないし、雑貨好きにもたまらない.非常に大きい受け皿となる街だった.

そして、私がよく行きつけにしていた(と言ってみたいだけの)バーも神保町にある.
メインの通りから少しだけズレて、歩いて5~10分のところにある.

ある人が行きつけにしていたらしく、その人に感化されて私も行ってみた. シンプルなデザインの外観から好感を持ったが、中に入るとより好感は増す.シックなカウンターとテーブルにBGMが調和して、上品さが醸し出されていた.さらに完全禁煙というのも非喫煙者の私にはありがたかった.

そして何より、バーのマスターの暖かさとユニークさが上品さに加算されて形容することが出来ない素敵空間に昇華されていた. 人見知りな私も物腰柔らかでスマートなマスターと話していたら、とても楽しく良い気分になる.

人は基本的に誰かと話したい生き物だが、時には話したくない場合もある.マスターはそういった人の心情を察するのに非常に長けているように感ぜられた. 洞察力(言い換えれば空気を読む力)という点で相当な達人クラスの人間だ.

一般的にバーのマスターはそういった能が無いと難しいのかもしれないが、あそこまで快適な空間を創れるマスターには、本当に脱帽だ.

今は離れてしまったが、東京を訪れる時は必ず寄りたいバー、そして話をしたいマスターがいる.

私にとって、神保町はそんな街だ.

コンプレックス

今週のお題「わたしと乗り物」

高校の時に交通事故に遭い、私は運転することができなくなってしまった。
いわゆる PTSD だ。大学のときに免許を取得しようと免許学校へ通った。
座学は問題なかったが、実技の時にはどうしようもなく手が震え、動悸が止まらなくなる。
そんな症状に悩まされて、結局は途中退学(?)することになった。

後部座席に座っている時はまだマシなのだが、ハンドルを持つと様々なイメージが浮かんだり、動悸が激しくなってしまったりする。
今後、この症状が快復するかどうかは分からない。
治らなければ運転することはかなわない。田舎出身者からすると、運転できない事はかなり致命的だと分かって貰えるだろう。

私の最大のコンプレックスかもしれない。
運転できないというのは、非常に不便であるし、頼りない。飛行機や船、自転車等に乗る際は問題ない(自転車以外は運転不可能)。むしろ飛行機は二度程しか経験がないが、振動やスピード、高さなどは結構好きだと感じた。ジェットコースター等も好きかもしれないが、乗ったことがないから分からない。
運転できればスピード狂になってたかもしれない。

結婚などを考えると、免許証が無い人間はとても頼りないと思われてしまうだろうし、田舎に暮らす場合は死活問題になる。

いつか快復すれば良いのだが、困った...