私が毎日幸福だと言う理由
自分の意識、認識以外は全て幻想、幻視に等しく等量に等価値で意味はない.
意味を見つけようと人はするけれど、実はそこに意味がないということを否定したいだけで.
こういったことを話せば、毎日が本当に幸せなのかと聴かれる.
幸せというのは個々人によって違うし、そもそも全く同一、同質な幸福なんてものは存在しない. 程度といった意味では概念的幸福は定義付けられるけれど、しかし本質的幸福(つまりは私的幸福)はその質を共有することはかなわない.
この世の全てに本質的な意味がないと、それを受け入れてからこそ、私の幸福は保証され始めた.
無意味であるが、それは無価値であるということと等価ではない.少なくとも、私にとっては非常に価値がある日々であり、私にとっては非常に幸福な日々だ.それ以上もそれ以下の概念も持つ必要性がない.
他人と共有できない、自分しか認識出来ないのなら、それに名付ける意味も形を与える意味もない.
つまりは、自らが幸福と肯定した刹那から、此の世界に価値が生じてそこから意味がない生じる.だから、「私は毎日が幸福だ」と定義した刹那から、此の世界は意味が生じるということで、本質は虚無だ.それを忘れたこともないし、忘れることは出来ないだろう.
だから、他者からすれば私はそこまで幸福な人間だとは思えないだろうし、自己の中にある自己は他者のその認識を肯定している.それでもいいのだ.矛盾を内包したその状態で、ある種非常に不安定な平衡状態で存在する事が、とても大切だ.
考えるべきは常に今と、一歩だけ先の未来.過去を振り返るのは誰かと語らう時と、どうしようもない時だけに限ることだ.
そうすれば、毎日が幸福だ.
終夏
この時節、
朝起きて、
外に出ると、
冷たい空気を、
感じる
冷たい空気を、
肺いっぱいに吸い込むと、
気持ちが良い
歩くと、
冷たい空気が風になって、
肌をなぜる
誰かの記憶と、
誰かの哀しみと、
誰かの悦びが混ざり合って、
私の中に入ってくる
その感覚が、
どうしても幸福なんだ
絵本を世界の大人へ
子供の頃は、あまり本を読まなかった。
それこそ、絵本もそこまで読んだことが無い子供だった。
少ない記憶の中で覚えているのは、しまじろうやどらえもんのようなテレビでもやっているようなもので、独自なものなどほぼ全く記憶がない。
動物たちが協力して何か料理をする物語の絵本を3度ほど読んだことがある気がするのだが、何を作っていたかの記憶が曖昧だ。
皆さんは覚えているだろうか。
むしろ子供のよりも今の方が絵本を読んでいるのではないかと思う。
そのようなコミュニティに参加しているという事もあるが、絵本の物語を解釈する能力を多少なりとも獲得した為により楽しめるようになった事が大きい。
例えば、「100万回生きたねこ」を私は幼少期に読んだことが無かった。大学生の頃にブックカフェで偶々読んだのだが、おそらく幼い時分に読んでもあの物語を巧く解釈できなかっただろうと推測される。
あの物語は、子供の私が読めばおそらく哀しい物語と思うだろう。しかし、今の私の解釈では優しい物語となっている。
他にも色々な絵本があるが、子供よりも解釈力が洗練された大人が読む方が良いと感じる。おそらく、「きれいごと」だといわれ「現実ではそううまくいかない」「大人の世界は複雑だ」とでも評されるだろう。
しかし、複雑なのは文字とシステムだけであり根幹の思想は大人子供関係ない。
大人になって忘れかけていた考え方、思想を再認識する機会を絵本は与えてくれる。
それこそ日本の政治家、いや世界中の政治家に絵本を読んで欲しい。
彼等にまだ正常、健全な解釈能力があるなら、そしてそれが全世界的に波及すれば、私達が抱えている哀しみの連鎖を一部でも食い止めらえるだろうに。
よう分からん人ってどこにでもいる -日々の雑感-
尊敬できる人、敬意を向ける相手は、ある程度決まってきている。
その逆もまた然り。
第一に、自分の知らない知識、技術を持っていてそれに熱中出来る人
第二に、自己中心的かつ感情的に成り過ぎず冷静さと合理性を併せ持つ人
そしてそれらの要素を持っていたとしても、他人の心を思いやれない人には敬意を向けることなど出来ない。
どれだけ頭が良くても、礼節や思いやりというものを知らずに生きいる人は苦労すると感じる。
なにもかもの経験が不足しているのか、経験からそれを教師として学習できていないのか、なんなのだろう。
年齢、立場関係なく、そのような人には一片の敬意を向けることがエネルギーの無駄なので省く省く。
それなら、本を読んでいる方がとても素晴らしいものを得られる。
その人に本を薦めるという手もあるが、薦めている時間をその人に賭すというのは割りにあわない。
まったく、困った困った
実際に解剖してみた
豚の頭の解剖
初めて行った
耳から顔の脂肪細胞の塊、鼻や頬の肉と削いで削いで削いで削いで
専門の包丁などではなく、急ごしらえの道具でやったにしては綺麗に骨まで削ぐことが出来たが、何より時間がかかり過ぎる
刃は脂肪で中々切りにくくなるし、脂肪自体が厚く切れないし、手で持って支える所は無くなっていくため非常に難しい
豚バラ、ロースなど既に切られている所を普段食べていると、絶対に感じることの出来ない苦労
勿論工場はオートメーションだろうが、実際の昔の人は凄いな、と素直に感動した
特に昔の侍とかは、人間をばっさばっさと切るとかのイメージだが、人間の脂肪や骨の硬さを豚から推測するとそんなこと不可能なのでは?と思えてくる
よっぽど刀が鋭いとしても、簡単に斬って捨てることが出来ないだろうな、と
豚の顎の骨を外すまでが一苦労で、人間は時に顎が外れるという言葉を使うが、豚などで顎が外れると聴いたことがない。それも解剖してみると、上顎と下顎の組み合う部分の頑健さが理解できる
あの顎が外れたら元に戻すことは不可能ではないかと思う
人間は二足歩行によって脳の位置が高くなった故に、四足歩行の首回り血管の太さの割合は人のそれと比べて細いだろうと考えられたが、あながち間違っていいないようだ
解剖は本当に学ぶことが多い
機会があれば(グロテスクなものが苦手で無ければ)、是非して欲しい
服のデザインにある男女差を誰か取り払って
私は裾がだぼだぼとしたパンツが好きだし、ゆるっとして丈の長いカーディガンが大好きなのだが、一般的な服屋さん、規格化がしっかりしている服屋ほどクラシックというかステレオタイプな服のデザイン分類をしていて非常に残念になる。
ユニクロやGUなどは、低価格で品質の悪くない商品を提供してくれる。しかし、デザインの面で変に男女で分類が為されているのが唯一残念に思うところだ。大体私が好きな服はウィメンズにしかないし、ユニセックスにもない。
この前無印良品に行った際に、性癖に刺さるデザインのパンツがありそれが男女兼用であった事で無印株が爆上がりした(もともと好きではあったが)。
インディゴブルーのだぼだぼゆるっとしたパンツ
あれは良い。
私の好みだ。
ポイントはテクスチャーと伸縮性とカラーなど各点が挙げられるが、多くをおさえている。
もう少しカラーバリエーションがあるとなお良いが、そちらの専門家ではないので何とも言えない。
沢山の素敵なデザイン(個人的に)があるのに、多くはウィメンズでありサイズ的に男性の私が着るのが難しいものも多く、このような悩みを持っている男性陣は意外と多いのではないかと推測する。
勿論、サイズがあればウィメンズでも着ている服があるが、やはり限られてしまう。
コスト的にもより低価格なものがあれば、とても嬉しいのだが....。
何を為したいか、何を為すべきか
研究というのは、自身の好奇心と社会的なニーズの双方から組み立てられる
そうした時、自分の好奇心が必ずしも社会還元と関係のないところであるとみなされてしまうこともある。これは時空間的な解像度が低い人間に分かりにくく説明するから理解されないだけだ。多くの研究は社会還元の面を持っているし、以前も書いたかもしれないが研究者はそこを一つの目的として据える事が重要だと思う。
生物がもっているある機能について知りたいと考えるとき、それを調べる事で何に生かすことが出来るかを滅茶苦茶頭を振り絞って考える。
バイオミメティクスの分野が例えやすい。
よく聞く話だがサメの肌をの構造を参考にした水着であるとか、ヤモリの手にある微細構造を模倣する事で創られた手袋がある。これらはもともとその生物の持つ機能への好奇心から、それらのもつポテンシャルを社会還元した結果であり、時空間的にきちんと考察すれば何かしらの面に応用できるものだ。そんな事できないと言っている研究者は4流だし、たいした研究が出来ていない(スタンスがその程度なら研究の質がその程度であるから)。
私のもっぱらの興味は
生命とは何か
人間が非生命で構成されたものを生命とみなし始める閾値はどこか
意識とは何か
そういったところに収束する。
そうして、それらの命題について考えるとき、人間の脳というものに着目せざるを得ない。人類最後のフロンティアは自身の中に在る脳とまで言われることもある程に、自分自身である脳の研究はまだまだ終わりそうにない。
そして、人類の寿命が延び始めてきて顕在化してきた問題、認知症や神経変性疾患と呼ばれる種々の病気はその原因が脳にある神経細胞の脱落、つまり脳が壊れ始めることであるとされる。記憶を失っていくこと、そして認識機能が低下することなどである。
最後のフロンティアである脳が鍵を握っている。
私は、そこにアプローチする方法を幾通りか考えた。
今後はこの筋で研究していこうと思う。
この研究、脳の研究と生命そのものの研究は社会還元について無限の可能性を持っている(この宇宙にいる限り有限だが)。
しかし、その分研究自体は非常に難関だ。
よりシャープにストイックに研究したいものである。
利己的動物愛護主義者の筋違いかつ侮辱的な批判へ
我々の生命は、現代の生活は数多の動物達の生命の上にある.
屍の塔の最上階に立っている.
そういった事を自覚せずに、全て研究者に汚名を擦り付けながら書いた文章で、あなたは今日も家畜と呼ばれる動物達の肉を喰らい、マウス達で安全確認された薬を飲むんだね. といったところ
楽な仕事だ.
こうやって残酷性だけを強調して、自らが受けている恩恵に敬意を払わず、このような文こそが彼等の尊い犠牲を侮辱する行為だと認識出来ないとは.
さらに言えば、今この社会を形成している要因は、直接関与していないと知らん顔するあなたにもあるのだということをとっとと自覚して欲しい
訂正
仕事は楽ではないな
責任逃れが容易に出来て楽だという話だ
実験をしている研究者、技術者全員が敬意を払っているか否かは証明できないし、この世の全ては揺らいでいる。100%なんてものは存在しない。
しかし、敬意を忘れず、生命を奪うことで医療、生活面へ貢献したいと努力する者達への風当たりがこの記事で増す可能性を考慮するべきであり、向い風の方がゴールへ着くのにかかる時間が増加するという事を自覚して書いて欲しいものだ.
こうしてまた研究費が削減されて新しい技術を開発するのに時間がかかり、動物達の生命が失われていくという事に早く気付くべきだと思うが、固定観念に囚われる利己的動物愛護人間には無理な話だ
久しぶりに酔って
酒は美味いが、
天才さえも殺す最強で最高の毒だ
私は愚民であるが、なお死ぬ模様である
マリンスノー
海の底に堕ちていく美しく儚い雪は、
水の住人達の骸なのだという.
きっと僕たちが死んだ時、
空に堕ちていくその姿を、
天使達は雪みたいだと言って、
はしゃいでいるんだろう
空から命を授かる時は、
人間がはしゃぐ
此の世界は、
笑い声だらけだ
またまた日本の研究力がほとんどオワコンな話
大学院
そこへの進学は多くの大学生にとってモラトリアムの延長に過ぎないだろう
真面目に研究は短期間する事になるだろうが、社会へ出るまでの期間、学生としての期間を延長する事が主な目的になってしまっている人が多い
また初任給と就職後の待遇の差は確かに存在するが、就職してスキルアップしより高い給与の出るところへ転職するか昇給すれば大学院など行かなくても十分な給与を貰えるだろう。
怠惰な大学院生程、研究室に必要のない人種はいない。特に理系の実験系ではそんな奴に使われる試薬が勿体ない(時間スケール的に無駄になると推測される)。結局研究はレースのような側面がある。先にアイディア、仮説を検証してデータを取って、まtア発明して論文にまとめてパブリッシュしたもの勝ちなのだ。
早く早く進めた方が勝つに決まっている。そして、怠惰な大学院生は遅滞させる要因であり、やる気のある学生にとっては目障りでしかない。研究をする為の大学院であるのに、はき違えている人が多く、またその人間が政治を担うようになっているのだから、日本の研究力が終わっていくのが誰の目に見ても明らかだろう。
と、少し愚痴を零してみる
研究テーマは....
どのような事を研究しようか、迷っていた
常に考えてはいるのだが、決め手にかけていた
最上命題は決まっている
「What is life?」
エルヴィン・シュレディンガー氏が残した知的生命への問であり、呪いだ
それでも、私達は
今日も知恵の塔を築き上げ続ける為に、考え続ける
インドネシア人の友人が
研究関係でインドネシアの方々2人程に実験を教えたりした機会があった。
その時から今も仲良くしてくれている。
彼女たちは私が学士の時に留学で日本に来ていて、当時は修士だった。
そして最近無事に卒業したらしい。お祝いのメッセージにはすぐ返事が来た。覚えていた日本語に英語がミックスされて来たので少々面食らったが、久しぶりに話せて非常に楽しい。
その友人というのはみんな女性なのだが、皆さんも街中でみかけたことがあるであろう髪を布で隠している方々だった。他文化の方々との交流は宗教、文化そして言語の違いを濃密に感じる事ができる良い機会だ。日本人同士でも互いに大きな差があるが、社会的な制度や宗教の背景が違うと、もっと根本的な認識の差異を感じる。
しかし、それでも「科学」というものは認識の差異を個々人レベルまで下げてくれるからありがたい。研究の話になれば障壁は、互いの解釈の違い以外に存在しない。それはディスカッションで何とかなる。互いの考えを共有し語り合いより洗練することだけが重要だからだ。研究よりも日常での際は厄介だ。美味しい食べ物を一緒に食べたくてもそれが宗教的に禁じられていることも多かった。肉も(時には魚も)食べられないことがある。
同じ宗教でも規則の程度が違っていて捕獲から調理の仕方(血抜きの仕方など)によっては牛肉豚肉はダメだけど鶏肉は大丈夫という人もいたし完全なベジタリアンもいた。
そういった文化と宗教の差異はどうしたって存在するし。個々人の価値観の差異まで落とし込めればいいのだが、難しい場合もあるだろう。それでも、それらの宗教や文化を押し付けてこないという事が非常に重要になってくる。また、それらの背景から生じる可能性のある偏見に縛られない事も同様に重要だ。
この事を分かっていない人は、非常に多い。日本人は特にそうなのではないかと思う(←偏見)
あたかも自分が常識であると考えて行動する人があまりに多くて、辟易しながら乾いた微笑を浮かべているばかりだ。
優しさというものは、自分の持つ偏見というものを認識して、相手の偏見を理解し擦り合わせていったり妥協点をみつけるように努められる性質を言うのだろう。
そういった意味で、彼女たちは非常に優しかったし賢かった。
私も、優しくあれていただろうか。
自由研究って懐かしいね
今週のお題「わたしの自由研究」
小学生の頃には、誰しも自由研究が夏休みの宿題として課されていたのではないだろうか。例に漏れず、私も自由研究を経験している。しかし、何をやったかは何も覚えていない。全く記憶がない。記憶障害ではないと思うのだが、過去に交通事故を経験している為、否定出来ない。
どのようにして研究対象を決めていただろうか。親に決めてもらっていたり、友達と相談して決めていたり、きっかけはある程度限られてくるだろう。
小学生の頃の「自由研究」は終わったが、人生においての「自由研究」、つまりは「趣味としての研究」は意外と誰しも(無意識的に)行っている。これには宿題と異なり期限が無いし、正解もない。自分自身の納得のいく解を見つけ出す行為である。(本職(になりそう)では本格的な「職業としての研究」を行っているが、これは専門性が高く一般的なことではない)。
簡単な例示を行うと、筋トレも研究であるしゲームも研究であると言えるかもしれない。様々なものが研究とみなせるのである。食べ歩きもそうであるだろうし、通勤もそうであるだろう。コスプレやハンドメイドも全て研究だ。試行錯誤を重ねて、試してデータを取ってそれをフィードバックして新しいものを創って試す。
ここで少しだけ、私の趣味の研究について語ろう。
1. 生息領域内における猫出現区域の探索とコミュニケーション構築
2. 1日300g以上の野菜摂取継続の影響評価
3. 最短通勤時間経路最適化問題
etc....
簡単なことを大学の研究テーマのように難しくそれっぽく書いてみた。
わかりやすい言葉で上の3つを翻訳すると、
1. 家の近くではどこで猫様と会えるの?仲良くなりたい。。。
2. 少しは健康のために野菜を取っておこう(ダイエットの為にも)
3. どこをどのように通ったら早く職場に着けるの?
ということだ。
大学の研究テーマっぽくする選手権では良いところに食い込めるのではないだろうか(誰得)。
皆さんは、一体どのような研究を日々しているのだろう
こっそり教えて頂けると、非常に嬉しい